第47回 勝兵塾月例会レポート

塾長・最高顧問 元谷 外志雄

勝兵塾第47回月例会が、4月16日(木)アパグループ東京本社会議室にて開催されました。
冒頭のアパグループ代表元谷外志雄塾長による開会のご挨拶では、「今般『理論近現代史学』というタイトルで本を出版する。左翼や右翼、保守や革新と言っているが、本当のことを知れば皆、保守になる。事実の断片を集めてあり得ることかあり得ないことか検証すれば、これまで言われていたことがいかにおかしかったかがわかる。表紙のデザインは『解體新書』をイメージしている。歴史を解剖し、真実を明らかにするのが本書の目的だ。アメリカはドイツに打ち勝つ為に、ソ連に多大な軍事援助をして巨大な軍事モンスターを作り出してしまった。第二次世界大戦後の世界赤化との戦いを見越して、バーンズはアメリカ陸海軍の上層部の反対にも拘らず、原爆投下を進め、その後の熱戦を冷戦に変えた。アメリカは原爆投下の呪縛に囚われており、アメリカが良い国であるために日本が貶められてきた。だから、この呪縛を解くために、日本はアメリカが原爆を投下せざるを得なかったことを認めてあげればよい。『理論近現代史学』では、『南京大虐殺』や『張作霖爆殺事件』、『従軍慰安婦』をはじめ10の具体的な事例を取り上げ、理論的に検証している。世界に反日国家は3つあるが、中国、韓国以上に反日的なのが日本人である。後20年もすれば戦争を知っている人がいなくなる。日本の保守はこれまで内輪だけで啓蒙してきたが、海外に向けて英語で発信していくべきだ。私は、
3、000億円の予算で3、000人の規模の情報省を創設するべきだと主張してきたが、第二次安倍内閣でようやくそれに向けた動きが出てきた。皆さんも是非6月2日の出版記念パーティーに参加していただきたい。」と、近現代史を理論的に検証する「理論近現代史学」という考え方を提唱されました。


衆議院議員 総務副大臣 西銘恒三郎様

衆議院議員で総務副大臣の西銘恒三郎様は、「沖縄の翁長知事が明日安倍総理と会う。翁長知事は高校の先輩であり、昭和63年に私が県議会議員選挙に出たときから共に政治の道を歩んできた。翁長氏が那覇市長時代にある会合で、『革新から保守に来ることはない。保守の方から手を差し伸べていかなければならない』と発言されたとき、私は少数派意見を汲み取るという意味で肯定的に捉えてこれを褒めた。しかし、昨年11月の知事選挙でなぜ急に共産党と組んだのかわからない。私は現実的に問題を解決すべきだという考えなので、普天間問題も辺野古への移設が唯一の解決策だと思っている。翁長知事が明日総理と会って感情をぶつけても解決することはないだろう。共産党と組んでやっている以上、法的な決着をさせるしかない。これまで政治の道を一緒に歩んできたが、もう袂を分かってしまった。私は戦争のない平和な状態を永続させる為に衆議院議員になったが、現実的に問題を解決すべきという考え方である。」と、沖縄選出の国会議員として基地問題への思いを語られました。

衆議院議員 鬼木誠様

衆議院議員の鬼木誠様は、「ご縁があってこの度『凛として愛』感想文コンクールの審査委員長を務めさせていただいている。小学5、6年の担任が左翼で、反日自虐の平和学習を行っていた。その中で私は、戦争反対は誰でも思うが、なぜ起こるのかと考え、戦争をなくすために政治家になりたいと考えるようになった。政治家になる前に7年間地方銀行に勤務し、生の経済を見てきた。当時は不良債権処理に追われ、取引先を格付けし、自己査定をしていたが、長年付き合ってきた取引先を査定して不良債権に分類することに違和感を覚えた。また、当時の国会中継で辻元清美氏が鈴木宗男氏に対してスキャンダルばかり追求しているのを見て、経済が大変なときに国会は何をバカなことをやっているのだと思った。はじめは無所属で県議会議員に当選したが、保守に目覚めて自民党に入った。反日自虐を改めるためには放送と教育を改めなければならないと考え、これまでマスメディアについて国会で3回質問した。まず、公共放送のあり方について、国民から半強制的に受信料を取りながら、反日自虐の放送を流し、さらにそれが全世界に流されているのは大きな問題があると指摘をした。次に放送法について、表現の自由や知る権利があるが、知る権利とは国民が真実を知る権利であり、嘘や捏造を止めさせろと発言した。さらにNHK予算の審議では籾井会長を激励した。籾井会長はハイヤー代で連日民主党に吊るし上げられているが、元々は個人で精算することになっていたにも拘らず、NHK側がその様に処理せず、その資料が流出したのは、内部に改革に反対する敵がいるのではないかと思う。」と、政治を志したきっかけと、自虐メディアを改めるための取り組みについて語られました。

衆議院議員 馳浩様

衆議院議員の馳浩様は、平成29年の消費税10%に向けてクリアすべき課題について質問され、鬼木様は、「景気を良くすることも必要だが、財政赤字は構造的な問題であり、国民を啓発していくことが必要だ。」と答えられました。さらに、沖縄での子育て環境について質問され、西銘様は、「沖縄にはシングルマザーも多く、子供が夜出歩いているケースが多い。学童保育や子育て支援の必要性を感じているが、沖縄の新聞は普天間問題ばかり報じている。」と答えられました。

財務省国際局開発政策課開発政策調整室長 NPO官民協働ネットワークCrossover協働創設者兼代表
池田洋一郎様

財務省国際局開発政策課開発政策調整室長でNPO官民協働ネットワークCrossover協働創設者兼代表の池田洋一郎様は、「アメリカ留学から帰国後、ある国会議員の先生からサブプライムローン問題の日本の金融システムへの影響について質問された際、私は『サブプライムローンはカリフォルニアの住宅ローンの問題であり、日本の金融システムは安定しているので問題ない』と答えた。ところが、そのすぐ後にリーマンショックが起こり、日比谷公園に派遣村ができたことにショックを受けた。国際社会に貢献できる日本人になるため、世界の問題をリアルにキャッチし、解決できる人材になりたいという思いを持ち、財務省を休職して、自ら志願して世界銀行の採用試験を受け、2011年夏から3年間勤めた。1対1で外国人と話をすることは難しくないが、国際社会で貢献するためには、多くの人の中で主張し、さらに合意形成をリードしていくスキルが必要である。2011年にバングラデシュに行った際に、最も苦労したのが仕事を貰えないことだった。最初は実績がないため、いくら提案しても話も聞いてもらえなかった。霞ヶ関にいると、『仕事が降ってくる』という言い方をするが、実際には仕事は取ってくるものであり、そのためには小さな実績を積み上げていく必要があることを実感した。ムスリムは『インシャーラ』という言葉をよく使う。『全ては唯一神アラーの思し召し』という意味であるが、それは、自分の中で変えられることと変えられないことを見極めた上で、変えられることに全力を尽くすということだと教えられた。私は自分のことばかり考えていたことを反省し、チームやバングラデシュの人達のために貢献することを考えるようになったところ、仕事がうまくいくようになった。世銀時代の上司が残した『これまで記録に残るよりも人々の記憶に残る仕事をしてきた』という言葉を胸に刻みながら、財務省に戻り、霞ヶ関のアントレプレナーとしてやっていこうと決意した。さらに、NPOを立ち上げ、官民や国境、言葉の壁を乗り越えて社会問題を解決し、国際社会に向けて発信していく活動をしている。」と、世界銀行へ飛び込んだときの苦悩とそこから得た経験、そして現在の取り組みについて語られました。

戦後問題ジャーナリスト 佐波優子様

戦後問題ジャーナリストの佐波優子様は、「最近は女性の予備自衛官も増えてきた。話を聞くと、自衛隊の訓練が日々の生活に役立っているという。富士ソフト企画という会社は、社員の9割が障害を持った方で、精神障害を持った方も多くいた。人材開発部長の39歳の女性は、そこで自衛隊の訓練を活かそうと考え、アイロンがけや早寝早起きを提案したところ、うつ病が改善し、中には完治した方もいた。自衛隊の中では目標を達成するために、大きな目標である『望成目標』と日々の目標である『必達目標』の2段階で考える。毎日少しずつやれば必ず目標は達成できる。いろんな企業の方々が見学に来ると、一人一人の社員の目が輝いていることに驚いて帰っていく。自衛隊の訓練を取り入れることで企業の活動に貢献でき、また日本が変わっていくのではないか。」と、自衛隊の訓練を企業活動に活かした事例を紹介されました。

第29代航空幕僚長 田母神俊雄様

第29代航空幕僚長の田母神俊雄様は、「台湾に2泊3日で訪れ、李登輝元総統とも面談をした。李登輝閣下からは、日本版台湾関係法を作ること、がん治療の最先端技術を台湾に提供すること、日台漁業協定が実効的に機能するよう取り組むこと、の3つのお願いをされた。台湾が親日的なのは、至るところに昔の立派な日本人の廟などの施設が作られ、祀られているからだ。台湾の嘉義農林学校の野球部は、日本人の監督が日本人、台湾人、原住民からなるチームを一つに纏め、1931年の夏の甲子園で準優勝した。この話を描いた映画『KANO』を観た李登輝閣下は深く感動され、台湾人が顧みるべきはこの『日本精神』だと発言されている。アジアで日本と台湾が同盟を結べば、アジアが安定する。これにアメリカも中国も反対するだろう。アメリカが台湾を切り捨てたのは、中国が核実験に成功し、ソ連と組んでアメリカに向かってくることを阻止するために、中国を取り込もうとしたからだ。アメリカはアメリカの都合でしか動かない。日本が台湾と同じような目に遭わないとも限らない。だから自分で自分を護れる国にならなければならない。そのために主要な兵器を国産にしなければ、自衛隊が自立できない。安倍政権で武器輸出三原則が見直され、武器を輸出できるようになったが、輸出すれば相手国に対して外交交渉でも優位に立てる。」と、李登輝元総統との面談の様子や、台湾で今なお尊敬される日本人の功績について語られるとともに、日本が自立するための課題を示されました。

セントルイス大学教授 サー・中松義郎博士

セントルイス大学教授のサー・中松義郎博士は、「今年末までにがんで死ぬという宣告を受けている。その様な中でもイギリスやスウェーデンで講義をしてきた。このがんにはまだ治療法がなく、自分で発明するしかない。明後日の『発明の日』に歌手デビューをするが、これもがんの治療法の発明のためである。」と、自身のがんへの取り組みついて語られました。

評論家 江崎道朗様

評論家の江崎道朗様は、「1991年にパールハーバー50周年記念式典がハワイのアリゾナ記念館で行われた。その周囲では『リメンバー広島』『リメンバー東京』『リメンバー長崎』と書いたメッセージをアメリカ人が掲げてデモをしていた。話を聞くと、『ルーズベルトが日本を追い込み、日本だけが悪かったという歴史観が肯定された結果、アメリカが世界で戦争をして嫌われ者になり、その戦争で多くの仲間達が死んだ。』と言っていた。しかし、日本のメディアも地元のメディアもそのことを一切報じなかった。1995年に自社さ政権での謝罪の国会決議を阻止するために活動したが、東京裁判史観を批判すると日米同盟にマイナスだとか、世界で孤立すると言っている日本人がたくさんいた。国際法の佐藤和男教授によれば、東京裁判を批判する国際法の学者は数多くいるが、最も少ないのが日本だという。初代国連大使の加瀬俊一氏は、バンドン会議でアジア、アフリカの人達が大東亜戦争で独立が早まったと感謝していたと言っている。世界の国際法学者は皆、東京裁判を批判し、国連国際法委員会のレポートでも、国際法にとって悪しき先例だと言っている。こうした世界の常識を紹介しない日本は、言論封鎖国家である。国内の間違った乏しい議論だけでは訳がわからなくなる。インドネシアの駐日大使と話したとき、開口一番に『なぜ日本は大東亜戦争と呼ばないのか。プラスの面をもっと発信し、アジアに対して責任ある国になって欲しい。』と言っていた。東京裁判を批判すれば国際社会で袋叩きに遭うというのは誤解である。」と、国際社会での議論を紹介されながら、東京裁判史観に関する日本人の認識の誤りを指摘されました。

勝兵塾事務局長 諸橋茂一様

勝兵塾事務局長の諸橋茂一様は、「現在使われている中学校の歴史教科書を比較検討した。東京書籍と育鵬社、自由社の教科書を20項目について採点したところ、東京書籍は0点であるのに対して、育鵬社が79点、自由社が178点だった。しかし、東京書籍の教科書の採択率が50%を超えているのに対して、育鵬社、自由社を合わせても3%程度にしかならない。他の5社も東京書籍と似たようなものであり、96~97%は反日教科書である。第一次安倍内閣で教育基本法が戦後初めて改正され、新しい学習指導要領ができた。今回の検定で、尖閣、竹島などの領土に関する記述が増え、内容が改善された。明日4月17日は明治28年(1895年)に下関条約が締結された日である。日清戦争に打ち勝ち、清国から台湾とその周辺の島の割譲を受けた。尖閣を中国のものだと言い出したのは1971年であるが、1969年には中国が作った地図に、尖閣は日本の領土だと記されている。尖閣と竹島が日本の領土であることを示す1、500点の資料のうち、200点余りを外務省のホームページに掲載している。真実の歴史を取り戻して日本の誇りと名誉を取り戻さなければならない。そのためには正しい教科書で正しい教育をする必要がある。」と、歴史教科書の問題点を指摘され、正しい歴史教育の必要性を訴えられました。

 

最後に元谷塾長より、「以前、前のインドネシア大使と対談した際に、日本のお陰で独立できたと大変盛り上がったが、その原稿をインドネシアの外務省に送ると、ほとんど削除されてしまった。毎年日本の政治家が謝罪し、文句を言えばODAを出すことを続けてきた。真実を矛盾なく解説できる歴史が理論近現代史学である。懸賞論文制度を創設し、第一回の最優秀賞を田母神氏が取ってから7年半が経ち、世の中が大きく変わった。当時は自民党末期政権であり、その後、日本の保守化が進んで第二次安倍内閣が誕生した。さらに『永遠の0』ブームから靖国神社の参拝者が増えた。こうした変化を背景に、日本の近現代史を見直す機運が出てきた。もう一息で一気に世の中が変わるだろう。」と、懸賞論文制度の創設以来の日本の保守化を振り返り、今後の更なる取り組みへの意気込みを語られ、会を締め括られました。