ペリー来航から開国
1853年にペリー提督が軍艦で浦賀に来航し、1854年、日本は不平等条約である日米和親条約を締結させられた。アメリカが仕掛けた「リメンバー・アラモ」と、1846年にメキシコと戦争し、「リメンバー・メイン号」と、1898年にスペインと戦争するなど、謀略を繰り返して領土を拡大し、ネイティブ・アメリカンを虐殺しながら西部開拓を進めた。さらに、スペインから奪ったグアム、フィリピンを支配下に治め、太平洋における覇権確立を目指していた。ペリー来航の目的は日本を支配し、ハワイ王朝を滅ぼして、太平洋における覇権を確立することであった。
明治維新
アヘン戦争(1840年~42年)後の悲惨な中国の姿を目にした日本は、強力な中央集権国家の必要性を痛感し、尊皇攘夷運動から明治維新を起こした。1868年、明治政府が誕生し、中央集権国家が成立するとともに、「富国強兵」のスローガンの下、急速な近代化を図った。
東アジアにおける西洋列強の植民地政策に危機感を抱いた日本政府は、朝鮮半島の安定が日本の安全保障上不可欠であるという認識から、李氏朝鮮の独立と近代化を促した。当時の朝鮮は、両班(やんばん)と呼ばれる特権階級が民衆からひどい搾取を行い、国土が荒廃し、産業の近代化から取り残されていた。また清国に対する朝貢外交を続け、清国は朝鮮を属国化していた。
日清戦争
1894年、朝鮮王朝の清国からの独立を巡り、「日清戦争」が勃発。日本が清国に勝利し、1895年、下関条約を締結。清国は朝鮮の独立を認めたほか、日本に対する賠償金や遼東半島、台湾等の割譲などが定められた。
これに対してロシア、ドイツ、フランスによる「三国干渉」を行い、日本はやむなく遼東半島を清国に返還。その後ロシアが旅順、大連を租借した。その結果、「臥薪嘗胆」をスローガンに、国民の中にロシアに対する敵対心が盛り上がった。
1900年に清国で「義和団事件」が発生すると、鎮圧のために日本も要請を受けて軍隊を派遣。北京議定書により軍の駐留が認められるとともに、日本軍のモラルの高さがイギリスに高く評価され、そのことが1902年の「日英同盟」に繋がった。
日露戦争
ロシアは不凍港を求めて南下政策を進め、すでに満州を勢力圏に収めていたが、さらに南下して朝鮮を支配しようとしたため、1904年、「日露戦争」が起こった。
日露戦争中、明石元二郎大佐は諜報謀略活動を行い、ロシア国内の革命運動に多額の資金援助を行って、反戦、反政府運動を盛り上げることで、ロシアの戦争継続を困難にした。
日本軍は乃木希典大将による旅順攻略、大山巌元帥による奉天会戦、東郷平八郎元帥による日本海海戦勝利を経て、アメリカ大統領のセオドア・ルーズベルトの斡旋により、ポーツマス条約を締結。ロシアは日本の朝鮮半島における優越権を認めたほか、南樺太の譲渡、中国関東州の租借権などが定められた。
一方アメリカは、日露戦争の翌年には日本を仮想的国とした「オレンジ・プラン」を策定した。
韓国併合
1910年、韓国閣僚の大半の賛成の下、寺内正毅統監と李(り)完用(かんよう)首相との間で合法的に「韓国併合条約」を締結、日本は大韓帝国を併合。
日本は北海道と同様に、朝鮮、台湾に対しても巨額の投資を行い、インフラを整備、内地化を進めた。さらに、日本は教育にも力を入れ、初等教育では学校建設を進めて就学率を劇的に向上させたほか、高等教育でも、1931年の大阪帝国大学設立より前に、朝鮮と台湾に帝国大学を設立した。(京城帝国大学1924年、台北帝国大学1928年)
辛亥(しんがい)革命による中華民国成立
当時の中国清王朝は満州族(女真族)による支配であったが、アヘン戦争の敗戦により西洋列強からの侵略で王朝が弱体化し、ここから軍閥が跋扈するようになる。特に袁世凱(えんせいがい)の死後、張作霖(ちょうさくりん)らの軍閥が中国各地を分割支配したため、統一された中国政府というものは存在せず、そのうち張作霖は日本の支援を受けて中国東三省(満州)で勢力拡大を図った。
孫文をはじめ、多くの革命指導者は日本に留学し、日本人の支援を受けていた。1911年、孫文らが中心となり、日清戦争に敗れた中国で辛亥革命を起こし、1912年、中華民国成立。
1928年、張作霖爆殺事件が起こる。関東軍の河本大作大佐による犯行と言われていたが、近年、ロシアのドミトリー・プロホロフ氏によって、ソ連の特務機関による犯行であることが明らかにされた。張作霖は蒋介石による北伐で追い詰められていた。一方ソ連は満州に勢力拡大を図ろうとしていた。そこでソ連は張作霖を爆殺し、これを日本の関東軍の仕業と見せかけることで日中関係を悪化させるとともに、満州に進出しようとした。
満州国建国
ソ連の満州における支配を排除するため、1931年、柳条湖で起こした南満州鉄道爆破事件をきっかけに満州事変が起こる。翌1932年、関東軍が満州全土を制圧、満州国建国。
コミンテルンによる謀略
1935年、第7回コミンテルン大会で、ソ連は日本と国民党政府とを戦わせることで、日本と中国の共産主義化を指示した。
1936年、コミンテルンの影響を受けていた張学良が、蒋介石を西安で拉致監禁(西安事件)。中国共産党(毛沢東)は蒋介石殺害を検討したが、スターリンの指示により蒋介石を、国共合作を条件に解放。それまで蒋介石は日本と宥和しつつ、共産党軍の討伐を優先していたが、第二次国共合作が成立したことで、国民党政府は中国共産党への攻撃をやめ、そのことで国民党政府に共産党勢力が入り込み、日本軍を挑発して、日本を戦争へ引きずり込んでいった。
1937年7月7日、中国盧溝橋付近で北京議定書に基づき駐留していた日本軍の軍事演習中に、日本軍とその近くにいた国民政府軍の双方に対して実弾が発射されたことをきっかけに、戦闘状態になった(盧溝橋事件)。この双方への発砲は、後に中国共産党国家主席となった劉少奇(りゅうしょうき)が指示したものであった。事件不拡大を望んだ日本軍は、その4日後には停戦協定を結んでいる。
しかし、同年7月29日、中国保安隊によって日本人婦女子を含む223人が虐殺された「通州事件」や、同年8月9日に起こった「大山大尉惨殺事件」、さらには、同年8月13日、国民党政府軍に潜入していたコミンテルンのスパイである南京上海防衛隊司令官の張治中(ちょうじちゅう)の謀略によって国民党政府軍が上海に合法的に駐留していた日本海軍陸戦隊に対して総攻撃を仕掛け、第二次上海事変が起こるなど、中国は次々に挑発を繰り返し、それまで自重し冷静な対応を行ってきた日本は、中国との全面戦争を余儀なくされた。当時上海には海軍陸戦隊が約4,200人いたが、国民政府軍は20万人以上が待機していたため、日本は援軍を派遣したのであり、不当に日本が中国に侵略したわけではない。
「南京三十万人虐殺」と「従軍慰安婦強制連行」の真実
上海事変で勝利した日本軍は、敗走する国民党政府軍を追撃し、国民党政府の首都であった南京を攻略し、同年12月13日に南京占領。このとき敗残兵が住民を略奪、虐殺。衣服を奪って便衣兵(ゲリラ)となったことから、日本軍は便衣兵の掃討作戦を行った。便衣兵の殺害は国際法上認められているものであり、一般住民を虐殺したのはこの敗残兵であった。しかし、こうした事実が歪められて、情報謀略戦として、「南京三十万人虐殺説」が流布された。
さらに、当時は軍に対して民間業者が慰安所を設置したが、「従軍慰安婦」といった言葉はなかった。この時代は家が貧しいと娘が身売りすることは日本でも中国、朝鮮でもよくあった話であり、軍は衛生管理の指導はしたが、慰安婦を強制的に連行したという事実は全くない。さらに慰安婦は高額な報酬を得ており、決して性奴隷などではなかった。
このように、「南京三十万人虐殺説」も「従軍慰安婦強制連行」も全く事実無根であり、日本は謂れなき非難を受けて貶められている。
第二次世界大戦の勃発
ヨーロッパでは、ドイツのヒトラーが1939年にポーランドへ侵攻し、イギリス、フランスが宣戦布告、その後ソ連もポーランドに侵攻し、独ソはポーランドを分割占領した。翌年、フランスが降伏すると、イギリスは孤立無援となり、チャーチルはアメリカに参戦を要請した。戦争への不参加を公約にして三選を果たしたフランクリン・ルーズベルトは裏口からの参戦を企てた。
対米戦争
1941年、米英中蘭によるABCD包囲網(経済封鎖)で経済的に追い詰められた日本は、植民地化されていたアジア諸国を独立させて大東亜共栄圏を創って自活すべく、ドイツ占領下のヴィシー政権との合意により、合法的に仏領インドシナに進駐した。
日本は対米戦争を回避しようと粘り強く交渉を続けていたが、すでにアメリカは暗号解読により日本の手の内をわかっており、アメリカは軍備が整うまでの間、日本を「あやし」ながら交渉を引き伸ばし、最後に「ハル・ノート」を突きつけて日本を暴発させた。
なお、「ハル・ノート」の原案を作成したハリー・ホワイトはコミンテルンのスパイであり、その後、身元が明らかになると自殺している。
ルーズベルトは、真珠湾攻撃の前である1941年7月23日、日本本土爆撃計画「JB-355計画」をすでに承認していた。これは蒋介石に戦闘機350機と長距離爆撃機150機を供与、中国空軍機に偽装して日本本土を爆撃させるというものだった。
「JB-355計画」は、ヨーロッパ戦線が急迫し、爆撃機をイギリスに回さなければならなくなったため、実施されなかったが、1941年10月20日、義勇兵に偽装したアメリカ軍飛行士「フライングタイガース」が、アメリカの供与した戦闘機約100機で、宣戦布告もなくいきなり昆明の日本軍に爆撃を加えた。
1941年12月8日、真珠湾攻撃。
アメリカは日本の外交暗号、海軍暗号のほぼ全てを解読しており、日本が真珠湾を攻撃することを事前に知っていたにもかかわらず、現地司令官キンメル提督にそれを知らせず、新鋭艦と空母を離脱させた上で、日本に奇襲させた。日本による宣戦布告通知が遅れたことを利用して、アメリカは日本の攻撃を「騙まし討ち」と国民に宣伝し、「リメンバー・パールハーバー」のスローガンの下、アメリカの対日宣戦布告が国民の支持を得ることになった。一千人近い犠牲者を出した戦艦アリゾナの沈没は、海側からの魚雷による穴は無く陸側に爆破口があることから、弾薬庫に火薬を仕掛けて自ら爆破したアメリカによる謀略という説もある。
日本の講和工作
1945年に入ると、敗色の濃くなった日本は、スウェーデンやスイス、さらには蒋介石やソ連に至るまで、様々なルートを通じて終戦工作を行い、講和の意思を示したが、アメリカは、議会機密費で作った原爆の開発が成功し使用するまで、天皇制の存続を曖昧にすることで戦争を引き延ばし、日本軍がすでに制空権も制海権も失った硫黄島に上陸して日本軍を上回る死傷者を出すことで、本土決戦となれば100万人のアメリカ兵が死傷すると主張して原爆投下の必要性を裏付け、同年8月6日に広島へ、8月9日に長崎へ原爆を投下した。
1945年8月14日、ポツダム宣言受諾、同8月15日、終戦。
大東亜戦争の総括
アメリカが終戦を引き延ばしたのは、世界赤化との戦いの中で、アメリカが戦後世界覇権を握るために、原爆の威力をソ連に見せつける必要があったからである。
第二次世界大戦後、唯一の核保有国となったアメリカは、日本の戦後の領土問題に争点を残すべく、ポツダム宣言受諾後に武装解除した日本に侵攻してきたソ連に待ったをかけず、北方領土領有を認め、アメリカによる傀儡政権である李承晩が、朝鮮戦争のどさくさに紛れて1952年1月に勝手に引いた「李承晩ライン」で竹島を取り込み、韓国の領土と主張するのを黙認した。
アメリカは原爆を使用したことで、国際的に非難を浴びないよう、日本をより悪い国にする必要があった。そのために、戦後すぐに日本人に対する洗脳政策が「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)」を実行。GHQは東京裁判で日本が悪い国であることを日本国内外に示すとともに、7,796種類とも言われるアメリカに不都合な書籍の焚書や、進歩的文化人(左翼)による検閲を行い、徹底した言論統制を行った。検閲に携わった戦後敗戦利得者は、高額の報酬を得ながら、誰一人として自ら検閲に携わったと言う人はいない。彼らは日本を貶め、GHQの支配を側面支援しただけでなく、メディアや法曹界、官僚機構を牛耳り、現在もなおアメリカと連携しながら日本を支配している。また、アメリカも、事実でないとわかっている「南京三十万人虐殺説」や「従軍慰安婦強制連行」を未だに否定しないばかりか、日本が真実に基づく正しい歴史観を取り戻そうとする動きを警戒している。
アメリカはピューリタンによる宗教国家であり、人種差別意識が強く、歴代大統領はWASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)が続いてきた。これまでの唯一のカトリックの大統領であるジョン・F・ケネディ大統領が登場したことで、1964年の公民権法成立へと繋がったが、ケネディはベトナム戦争拡大を目論む産軍複合体によって1963年に暗殺された。先の大戦は、全体主義国家と決め付けた枢軸国(日独伊)と連合国との戦争ではなく、世界赤化を目指すコミンテルンの謀略による資本主義国家同士を争わせる戦争であった。さらに、大東亜戦争は、太平洋の覇権を巡る日本とアメリカとの戦いであるとともに、キリスト教に帰依しない日本に対する宗教戦争の側面もあったと言える。
以上