第153回 勝兵塾月例会レポート
公開日:2024/3/28
塾長・最高顧問 元谷 外志雄
勝兵塾第153回月例会が、3月21日にアパグループ東京本社で開催されました。
冒頭のアパグループ元谷外志雄会長による塾長挨拶では、「テレビや新聞も本当のことを伝えていないが、私は勝兵塾を本当のことを知る機会として頂ければと思い開催している。毎回様々な立場の講師から、それぞれの観点で発表を頂いている。発表を希望する方はぜひ申し出てほしい。今回も講義や質疑応答も含めて、意義の深い月例会となってほしい。」と勝兵塾への思いを述べました。
参議院議員 宮本周司様
参議院議員の宮本周司様は、「石川県出身、石川県選出の参議院議員として、この度の能登半島地震に際し、発災直後から石川県庁の災害対策本部で対応に当たった。緊急時であり、指揮系統を円滑にして今すぐに救わなければいけない命を救うため、政党や会派を超え一枚岩となって復旧・復興に向け尽力してきた。避難所への物資に関しては、アパグループ様からも、自らも被災したにもかかわらず多くの物資をご提供頂くなど、多くの方々のお力添えを頂いた。初動が遅いという報道もあったが、北陸特有の冬の寒さや、余震が3日間で約500回続く中、土砂崩れや悪天候、海岸線の隆起などによって陸海空のルートに困難が生じ続け、それを瞬時に判断して手を講じ続けた初動の72時間であった。発災から2ヶ月半が経ち、各市や町が復興に向けた計画やビジョンを具現化しながら、いよいよ本格的な復興にフェーズが移行しつつある。アパグループ様をはじめ、ホテルや旅館に被災された方々を受け入れて頂いており、今も多くの方が二次避難を続けておられるが、徐々に仮設住宅や公営住宅、賃貸の活用もしながら、拠点を移しつつある。今月に入り、私は参議院予算委員会で、予算審議初日の3月4日に震災関連の質問を行ったが、その際に敢えて質問に触れなかった内容がある。能登半島の奥にある輪島市内の舳倉島は国境離島になっており、輪島市と能登町の境付近には自衛隊の輪島分屯基地がある。こうした防衛関連施設や海上保安庁の施設、原子力発電所や空港といった生活関連施設の半径1キロ圏内にそして国境離島は、何らかの施設ができて使用を阻害されてはならないため、重要土地等調査法に基づく注視区域に指定されている。震災の混乱の中で、こうした注視区域周辺や、現在まだ区域指定されていない志賀原発(稼働停止中)の周辺に何らかの悪意を持った投資がなされないよう、内閣府内の担当部署と確認をしながら進めている。このように、我々が愛する故郷をしっかりと守るという気持ちを持ち続けながら誠心努力を続けていく。」と、震災対応と日本固有の領土を守ることについて話されました。
衆議院議員 杉田水脈様
衆議院議員の杉田水脈様は、「第7回アパ日本再興大賞を受賞された井上和彦氏は、各国の戦跡・戦地をめぐるツアーを主催されている。私も2014年に落選し、議員浪人生活の間に何度もご一緒させて頂き、ミャンマーやベトナム、オーストラリアを訪問した。そうした慰霊の旅をしていると、現地の方から『日本人が来るのは初めてです。国を守って命を落とした方々が眠っているところになぜ日本人が来ないんだ。』と言われたこともあった。一方で、どこの国でも記念碑や慰霊碑を現地の方、特に若い方が掃除を積極的にされていて、きれいな形で保存されていた。ベトナムに行った際にはこんな興味深い体験をした。元TBSの山口敬之氏がワシントンの支局長であった際、アメリカの公文書を徹底的に調べ上げ、ベトナム戦争に韓国軍が参戦した際に慰安所を設置していたことを発見した。当時TBSに所属していた山口氏は自社で報道しようとしたがストップがかかり、文春で発表したが、我々は何とかしてそこを訪ねられないかと考えた。現地の方々にもご協力頂き、突き止めた韓国軍の慰安所跡は、洋品店の2階のようなところであった。そのことを各地で発表していると、それまで全く面識のなかった山口氏が、ある講演を聴きに来て下さり、『実際にどこにあるかを自力で探すことができなかったので、井上さんと杉田さんが発見してくれたことが嬉しい。』とお礼の言葉を頂き、その後も交流が続いている。また、4月号の『Apple Town』に井上氏と元谷塾長の対談が『先の大戦を日本が戦ったことで、世界の人種平等が実現した』というタイトルで掲載されている。1919年に日本が初めて国際連盟で人種差別撤廃を訴えた際、賛成多数であったにも拘らず、英米が反対をして、なぜか全会一致でなければならないという理由で採択されなかった。それから100年が経った2019年にもう一度、国連で日本が提起できないだろうかと山下英次氏も熱心に働きかけてくださり、シンポジウムの開催などを試みたものの、大規模な運動にはできなかった。また、昨年にインドのカルカッタにあるチャンドラ・ボースの生家を訪ねてきた。実は故安倍晋三元総理も第一次安倍内閣の際に訪問され、その際の写真も残っていたのだが、大東亜会議の資料や写真が家中に展示されており、大変勉強になる。そこで頂いた資料を、玄洋社を組織した頭山満氏の孫である頭山興助氏にお渡ししたりした。しかし、大東亜会議の記述ひとつをとってみても、今の教科書には十分な記載がなく、日本人は全く知らない。教育を改善していくことが、日本に誇りを持てるようになっていくと思っている。国会が派閥のパーティー券の問題でゴタゴタしている中、自民党は若手を集めて『背骨勉強会』を開始させた。斎藤健経済産業大臣が講師となり、戦前史をテーマに熱弁を振るい、例えば、日露戦争終結から大東亜戦争開始の約30年の間に日本がどのように変容したのかを、独自の研究を交えてお話になった。その中の一つが指導者の変質である。武士と軍人の違いは、武士はジェネラリストで軍人はスペシャリストであることだ。武士は農政や財政、外交や政治を全て担っていた。これが明治までの指導者で、彼らが育てたのが軍人というスペシャリストである。日露戦争の際はジェネラリストとスペシャリストがうまく機能していたが、大正末期までにそうした武士は姿を消し、大東亜戦争はスペシャリストである軍人が指揮を取ったという違いがある、と指摘された。では、どうすれば今後そうしたジェネラリストを育成できるのか、どのような教育を子どもたちにすれば良いのかという課題に向き合っていかなければならない。」と、戦跡を訪問された経験に基づき、今の日本人に必要な教育について語られました。
麗澤大学特別教授・モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所教授 髙橋史朗様
麗澤大学特別教授・モラロジー道徳教育財団道徳科学研究所教授の髙橋史朗様は、「私のライフワークの一つとして、人間力の養成に取り組んでいる。PHP教育政策研究所から約20年前に、『親と教師が日本を変える』という本を出版したが、これが私の出発点となっている。教師の人間力を育成するために師範塾というものを創設し、東京・大阪・埼玉・福岡で10年以上開講してきた。そこに原田隆史という体育教師が熱心に来ていたが、後に彼が作った目標達成シートは、大谷翔平も実践したことで話題となった。その一部は師範塾の教育の成果であると思っている。その目標達成シートであるが、『運』の項目があることに注目したい。さらに、『運』の詳細欄には、『ゴミ拾い』や『挨拶』、『思いやり』などが書かれている。大谷がゴミを拾う理由を聞かれ、運を拾っていると答えたことがあるが、まさしくこの教育の成果であると言える。また、日本には自ら清掃することで心が綺麗になるという考えがある。日本の学校清掃風景をアメリカの大学院生に見せると驚かれたことがある。アメリカでは清掃は業者がやるものという意識からだが、清掃こそ人間教育の原点であると私は思う。国が閣議決定された次期教育振興基本計画の2本柱として、⑴持続可能な社会の創り手の育成。⑵ 日本社会に根差したウェルビーイングの向上、が挙げられる。ウェルビーイングとは、WHOの定義では身体的、心理的、社会的に良い状態、ひと言でいえば幸福ということ。これに関する論文出版数は近年急増しており、これまでマイナスの原因を調べていた心理学が、ポジティブな心理学にシフトしている。その第一人者は前野隆司氏で、今年4月から世界で初めて武蔵野大学に開設されるウェルビーイング学部長に就任される。ウェルビーイング学会によれば2030年以降はウェルビーイングの時代といわれるが、私はウェルビーイングはもともと日本にあったものであると考えている。例えば『幸せ』の語源は『為(し)合わす』であって、自分一人ではなくお互いの幸せである。大和歌という日本の和歌の原型は七五調のリズムであるが、これは法隆寺に見られる白銀比、1対1・4と一致している。日本人の幸福観は、宮沢賢治が述べたように世界全体が幸せにならなければ個人の幸せはないという考え方である。今、『常若産業甲子園』というプロジェクトを推進している。子供達がSDGsを自分事として受け止め、自分の地域で大人たちと協力して何ができるかというプレゼンをしている。常若産業甲子園では、はじめに全員で坂村真民の詩『あとからくる者のために』を読む。自分だけでなく、後に続く者が楽になるように考えることが大事である。これを今風に表現すると、縦軸をSDGs、横軸をウェルビーイングとして、それぞれを日本独自の概念で捉え直し、そのバランスを取ることである。縦軸のSDGsとは『常若』であり、志を立てて道を継承すること、共通性である。横軸は和の精神の発展、つまり共生・共活・共創である。ここでの和は和して同ぜずの和であり、同調せずとも多様性を受け入れ和を維持することである。よく性はグラデーションであると言うが、それは間違いで、性別は不易の共通性であり、後から文化的・社会的に形成されたジェンダーの多様性とのバランスを取って考えなければならない。私はこれを『常若・志道和幸』教育と呼んでいる。話は変わり30代の頃、青少年健全育成研究会の座長を打診されたことがあったが、私は青少年を健全育成するための前提条件に問題があると思っている。例えば、OECD(経済協力開発機構)が2022年に発表したPISAと呼ばれる生徒の学習到達度調査では、『保護者からの支援』の項目が日本の子どもは81か国の中で最低となっているが、マスコミは報じない。先日に東京大学でのシンポジウムで登壇した香港の政府教育長官も、保護者の教育に特に力を入れているといっていたが、日本のこども家庭庁はその問題を軽視している。というのも、家庭の問題を論じ出すと家庭教育支援条例と旧統一教会は関係があるからといって騒がれるので、政治家は発言を避けてしまっている。一方、私たちは『心のコップを上に向ける』ことを重視してきた。子どもにあれこれ指示を出すのではなく、親・教師から変わらなければ子どもは変わらないのである。民間から声を上げ、家庭教育について本気で議論をしないとこの国は崩壊してしまう。」と、保護者の教育が蔑ろにされている日本の現状に警鐘を鳴らされました。
一般社団法人空の神兵慰霊顕彰碑護持会代表理事 奥本康大様
一般社団法人空の神兵慰霊顕彰碑護持会代表理事の奥本康大様は、「日本人は本当に戦争の歴史に対して無知になっており、また知ろうともしていない人がたくさんいる。その無気力さによって歴史が変わってしまっていると感じている。3月26日は硫黄島で栗林忠道大将が最後の玉砕攻撃を敢行してから79年となる。硫黄島といえば栗林大将というイメージが強いが、同じく戦った市丸利之助中将がルーズベルトに宛てた『ルーズベルトニ与フル書』という手紙があり、私は数年前から市丸中将について色々と調査してきた。残念ながらこの手紙が日本に広く知られるようになったのが昭和50年と戦後かなり経ってからであった。2年ほど前に九州で講演した折に、市丸中将の実家がある唐津市に取材に行ったが、市役所の教育課に市丸中将の墓や顕彰碑の場所を尋ねても分からないと回答があった。80年も経ち風化していることに悔しさもあったが、様々な人を頼ってようやくお墓や顕彰碑の場所へ赴きお参りをすることができた。その際、唐津神社が平成29年から柏邨忌という慰霊祭をしていることを聞いた。市丸中将の卒業した旧制唐津中学校、現唐津東高校のOBが主催しているとのことで、昨年初めて参加し、講師も担当した。市丸中将は、死にかけたことが二度あったという。大正15年に飛行機から訓練中に墜落し、大腿骨・股関節・顔面を骨折し全治に三年かかる瀕死の重傷を負った。その次に、南方で抗戦中に敵弾が飛行機に当たったが、軍刀の先に当たって難を逃れた。その軍刀を最後まで愛用しており、硫黄島にも持参して戦後は米軍に渡っていたが、数奇な運命を辿って市丸中将の実家に戻った。硫黄島の戦いについては、日本軍の守備隊が約2万人に対して、米軍が約11万人上陸してきた。当初米軍は5日くらいで制圧できると踏んでいたが、日本軍は30数日間持ち堪えた。硫黄島にはペリリュー島と同じように洞窟陣地を縦横無尽に掘っていて、硫黄島での掘削は硫黄臭との闘いでもあったが、そうした苦労も経て必死に防衛した人々がいたのである。その結果、日本の戦死者・戦傷者合計よりも米国のそれが多くなるほどの激戦となった。昭和19年10月、硫黄島に市丸中将が赴任された際、海軍の航空隊にも拘らずほとんど飛行機がなく、陸軍と同じように戦った。そして現在、アメリカ海軍兵学校内博物館に展示されている『ルーズベルトニ与フル書』の内容だが、①日本が対米戦争をせざるを得なかった経緯②昭和天皇の世界平和に対するお気持ち③白人の植民地主義に対する批判④欧州戦線を鑑みた欧米諸国の姿勢に対する批判の4項目になっている。また日本語と英語で2種類書かれ、別々の軍人が腹に巻き付けて突撃し、米軍が日本兵の死体を調べた際に回収されていた。3月26日の玉砕後、4月4日には電報で内容が伝わっていたが、新聞に掲載されたのは7月11日であった。ルーズベルトが噓をついて開戦を招いたことが明らかになり、アメリカではルーズベルト批判が巻き起こった。市丸中将は唐津市に慰霊碑こそあるが、もっと唐津の人々、そして日本中の人々にこの偉大な軍人の足跡を知ってもらいたい。正しい戦争の歴史を学び、日本人としての自信と誇りを取り戻さなければいけないと思う。」と、日本人が正しい戦争の歴史を知ることの重要性を説かれました。
元横浜市教育委員長 今田忠彦様
元横浜市教育委員長の今田忠彦様は、「学校現場では生徒一人一人の自己肯定感を高めることが大事であるにも拘わらず、長期間にわたって自虐的要素の強い歴史教科書による教育が行われてきた。その結果、誇りや自信に欠け、日本の歴史や伝統文化に関心のない若者を拡大再生産し、日本人の人間力が劣化してしまっている。教科書は民間の教科書会社が編集・制作し、国の検定を経て、地方の教育委員会が一番相応しいとした教科書を選定する。しかし、教育委員会は常勤の教育長と非常勤の教育委員で成り立っている。非常勤の教育委員は各地域の名士や、教養のある人を任用するわけだが、名誉職的な意識が強い。私は総務局長をしていた平成15年に、当時38歳の中田宏市長からオファーがあり、今後の市政運営や自分自身の教育にかける思い、そして1年間、総務局長としてご一緒した私の印象を話して頂き、教育委員を引き受けた。その時に私は、名誉職的な教育委員にはならず、必ずしっかりとした役割を果たそうと心に刻み込んだ。当時横浜市の教育委員会は、かつての革新市政の流れもあり、組合の組織率が85%。最も左側だと言われる日本書籍の教科書を35年も採用している状況の中で、平成17年~27年にわたって4回の採択経験をした。平成17年の教科書採択の際は、当時の扶桑社の教科書を推薦したのは私だけで、賛同は得られなかった。その後、平成18年の8月から教育委員長の役割を拝命し、法制度の改正で委員長のポストがなくなるまで勤め上げた。その間には、教育委員に対して勉強会も立ち上げ、その成果は教科書採択だけでなく横浜サイエンスフロンティア高校の設立や、学校教育事務所の設置などにも表れた。そして、平成21年には18区のうち8区の市立中学で自由社の教科書を採択することとなった。教科書採択を通じて感じたこととして、日本の教科書が近現代史に対して非常に厳しく、例えば日露戦争を語る際に東郷平八郎が登場しないような教科書も検定を合格しており、読んでいて心を動かされない。また、東京裁判においてアメリカが行ったWGIP、つまり洗脳計画についてもほとんど触れていない。これはつまり、昭和27年に共産党の志賀義雄が言ったとされる、武装革命は必要ではなく、共産党が作った教科書で社会主義革命を信奉する日教組の教師が教えることで共産革命はできるということではないか。そうした状況を危惧し、『新しい教科書をつくる会』ができたが、平成13年に検定を合格したにも拘らず、不採択を求める激しい全国規模の運動が起きたこともあった。一方で横浜市では当時の中田市長の深い見識もあり、ある意味パンドラの箱を開けた教育委員が主体的に勉強をし、つくる会系の教科書を採択することになった。採択時の記者会見の際、最初に香港フェニックステレビを名乗る女性記者から質問があり、『あの侵略戦争をどう思いますか』とあった。そこで、『日本が中国大陸に進出したことについては、多少なりとも侵略の要素がなかったとは言えない。しかし、日本が出ていった結果として、多くの東南アジアの国々が欧米の植民地支配から解放されたではないか。もっと幅広く見るべきではないか。』と回答したら、反論はなかった。教科書採択の現場はイデオロギー闘争が常態化しているが、歴史教育の本質、そして狙いが何であるか、国民的な理解を深めることが必要であり、検定に際しては文科省と謙虚かつ気高く対応することが重要である。この状況を改善するには、各論的には3つあると考えている。1つ目は関係者の反省・努力・行動、2つ目は国会議員の自覚・論戦、3つ目はマスコミに必要な自省と奮起である。内容のある教科書で心が動く授業をし、学生が正しい歴史を学ぼうとする意欲を引き起こす。そのことが日本人を取り戻すきっかけとなるのではないか、それが我々大人の責任ではないか。」と、教育に携わるすべての人間に対する奮起を促されました。
一燈代表 定森統和様
一燈代表の定森統和様は、「広島県に生まれ、現在は再犯防止活動とご縁のあった滋賀県と千年以上続く比叡山の利他の教えを継承するために、一燈という団体を立ち上げ、研修を通じて、ご案内する活動を行っている。私は、次の世代に生まれた人に、本当にこの国に生まれてよかったと思ってもらいたい、地元のたくさんの人から繋がれたバトンを次世代に繋げたい、という志を持っている。私の地元である広島のアイデンティティをひと言でいうならば『愛』であり、愛のDNAが脈々と受け継がれているのが広島県民だと考えている。例えば、広島の著名な人物として毛利元就がいる。彼は幼少期に両親を亡くしているが、その際に父親の側室がそのまま毛利元就の面倒を見た。そしてその元就が息子たちに説いた『三本の矢』の教えは今も広島に生きており、サッカーのサンフレッチェ広島はエンブレムに用いている。また、広島にはカープという市民球団もあるが、時には市民による募金で活動資金を得るなど、市民の強い愛情によって成長したチームである。愛から派生して、平和教育が非常に重要ではあるが、昨年のG7広島サミットでは残念な思いをした。私は、何よりもまずロシアを呼び、停戦に向けた動きをすべきだったと思うが、実際には必要な限りウクライナへの支援を行う決定をした。つまり戦争を助長しているように感じた。その一方で、核兵器のない世界という究極の目標に向けて軍縮や不拡散の取り組みを強化するという、非常に矛盾の多い採択が出されたことを残念に思うと共に、議長国の岸田首相の選挙区でもある広島県民として申し訳なさを感じている。また、平和について考えるにあたり、8月6日の平和公園に足を運んでみてほしい。昨年、初めて平和公園に当日足を運んだところ、一部の中核派活動家のデモ運動に心を痛めた。昨年は5名の活動家が集団的暴行として逮捕されたが、いずれも広島県民ではない。広島県民にとってあの日は祈りを捧げる日であり、思想信条に関係なく、二度とこうした惨事を起こさないよう、八紘一宇で世界中の人たちと思いを分かち合う日だと思っている。県や市の職員がデモを鎮圧するために必死の思いで耐えているのに、広島県の議員ですら顔を出さない。8月6日は、主義主張ではなく、広島県民にとってただ祈りを捧げる日としてあるので、その日を奪わないでほしい」と、広島県民にとっての愛、そして平和への思いを熱弁頂きました。
一般社団法人シベリア抑留解明の会理事長 近藤建様
一般社団法人シベリア抑留解明の会理事長の近藤建様は、「6年ほど前にこの勝兵塾の場で宣言をし、シベリア抑留解明の会を始めた。テーマとして、シベリアに抑留された人たちの真実を探り、その責任を問うこと。そして、北朝鮮に拉致された人たちを取り戻すこと。そしてもう一つは、火事場泥棒で奪われたままになっている北方四島を取り戻すこと。それを一纏めにして、『ツインバッジ運動』をやっているが、まだ400名しか会員がいない。3月23日には靖国神社で初めての会員大会を行うこととなった。是非力を貸して頂きたい。」と語られました。
勝兵塾事務局長・株式会社KBM代表取締役会長 諸橋茂一様
勝兵塾事務局長・株式会社KBM代表取締役会長の諸橋茂一様は、「昨年11月に硫黄島慰霊の旅に行った。残念ながら硫黄島には上陸できなかったが、父島まで赴いた。そこから硫黄島に向かい、黙祷を捧げて君が代、海ゆかばを奉唱。その後、靖国神社からいただいた清酒を海に注ぎ、慰霊祭を斎行した。父島には海上自衛隊の分屯地があるが、日本軍のトーチカや機関砲・大砲、戦車や米軍機の残骸を確認でき、ここでも相当な戦いがあったことが分かる。竹島桟橋から父島まで約千㌔、24時間の旅。1万㌧級超のおがさわら丸で航海した。話題に上がった『ルーズベルトニ与フル書』ともリンクする内容だが、なぜ日本が戦わざるを得なくなったのか、どう戦ったのか、そして日本が甚大なる損害を出して大東亜戦争を戦ったことが、人類史世界史的に見てどのように大きな貢献を果たしたのかを日本人は認識する必要がある。硫黄島をはじめ、各戦地で死力を尽くして戦い散華された皆さま、どうか安らかにお眠り下さい。」と、大東亜戦争で戦死された方々への思いを話されました。
最後に塾長は「本日も様々な観点から素晴らしいお話を伺うことができた。」と述べて、会を締め括りました。