第146回 勝兵塾月例会レポート
公開日:2023/8/28
塾長・最高顧問 元谷 外志雄
勝兵塾第146回月例会が、8月18日にアパグループ東京本社で開催されました。
冒頭のアパグループの元谷外志雄会長による塾長挨拶では、「本当はどうなのかを知る機会として勝兵塾を開催してきたが、いろんな観点から議論を交えて本当のことを見出すとともに、日本がどういう思いでかつて戦い、その結果どうだったのかを知ることが重要である。もし日本が戦っていなかったら、いまだに西洋列強による支配が続き、人種差別の時代が続いていただろう。そういう意味では、戦いには負けたが、日本が戦ったことで世界から人種差別がなくなったのではないかと思っている。」と述べました。続いて、プレジデントオンラインアカデミーの塾長のインタビュー動画「アパグループ会長 元谷外志雄〈前編〉 「天才経営者が教える「非常識なもうけ方」」を視聴致しました。
国際経済政治学者、大阪市立大学名誉教授・経済学博士 山下英次様
国際経済政治学者、大阪市立大学名誉教授・経済学博士の山下英次様は、「拙著『日本よ、歴とした独立国になれ! ‐アメリカの戦勝国史観から脱却するときは令和』が出版される。日本が今独立国でないのは、多くの国民がGHQによる洗脳が解けていないからであり、この本はその解毒剤を提供するものである。本日は、この本の第4章の『戦勝国史観を根底から覆す時がきた』について話したい。戦勝国史観とはアメリカが善で日本が悪というものであるが、実際はむしろ正反対ではないか。第二次世界大戦を振り返ると非常におかしなことがある。連合軍はアメリカ、イギリスが中心であるが、そこに、共産主義、全体主義的独裁者であるスターリンに率いられたソ連が入っていた。したがって、連合軍は民主主義連合ではない。従来の構図は民主主義対全体主義だったが、ソ連が入って違うものになった。これはルーズヴェルトの初歩的かつ根源的な間違いである。第二次世界大戦前は、世界に社会主義国はソ連とモンゴルの2つしかなかった。しかしソ連が戦勝国となった結果、ピーク時には41か国が社会主義国となった。中華人民共和国は1949年にできたが、これはアメリカの政策の誤りによって誕生した。アメリカは、日中戦争時には蒋介石を支援していたが、日本との戦争が終わると蒋介石への援助をストップした。その結果、蒋介石が負けて共産党が勝った。チャーチルは共産主義に対しては厳しい見方をしていたが、凋落するイギリスはアメリカに援助してもらうしかなかった。チャーチルやGHQのチャールズ・ウィロビー少将、チャールズ・リンドバーグ大佐、ハミルトン・フィッシュ下院議員、ハーバート・フーヴァー大統領、外交官のジョージ・ケナンらは、第二次世界大戦は避けることのできた戦争だったと回顧録で書いている。日米戦争は真珠湾攻撃で始まったわけではない。その12日前には最後通牒であるハル・ノートがあり、更に遡れば、7月25日のドル預金口座の凍結から始まっている。ルーズヴェルトは何としても戦争がしたかったので、日本を経済的に締め上げて追い込んでいった。石油を禁輸すれば、日本は南方に石油を求めていかなければならなくなり、必ずアメリカと衝突する。つまり、ルーズヴェルトが選んだ戦争だったのである。1937年にシカゴで隔離演説があり、そこで日独伊の三国を全体主義と呼んだ。ルーズヴェルトは、共産主義を民主主義の一種だと誤解していた。アメリカでは多くの軍人や外交官もそのように誤解していた。その結果、アメリカは共産主義と一緒に歩むことになった。戦前は2か国だった社会主義国が戦後41か国になったことだけでも、我々自由主義世界にとっては大惨事である。これはルーズヴェルトが戦う相手を間違ったからである。本来はソ連と戦うべきだったのが、なぜ日本とドイツだったのか。これは世界の資本主義国家に対する裏切りだと言える。熱戦が1945年8月に終わり、その半年後にチャーチルの『鉄のカーテン』演説があったが、これは戦う相手を間違ったと言ったも同然である。GHQは途中で占領政策を180度転換した。公職追放で軍国主義者を最初はパージしていたが、ある時から共産主義者をパージするようになったのである。これもアメリカが戦う敵を間違ったことに気付いたからである。ルーズヴェルト政権にいた4人の閣僚級の人物がソ連のスパイであることが明らかになったが、そのほかにも300人くらいスパイがいたと言われている。第二次世界大戦が終わるまでアメリカでソ連のスパイを摘発したという話は聞いたことがない。彼らはソ連のために戦争を遂行しようと政策を進めていた。日本は、頭の中は共産主義者で体は筋骨隆々の資本主義者であるアメリカと戦った。これは20世紀最大の愚行だった。だからルーズヴェルトを徹底的に批判しなければならない。そうしないとアメリカはいつまでも間違える。アメリカ人は歴代大統領の人気投票を毎年するが、トップ3にルーズヴェルトが入っている。つまりアメリカ人はルーズヴェルトがやったことをほとんどわかっていないということである。『リメンバー・パールハーバー』と言っているのは何もわかっていない証拠である。ルーズヴェルトはハル・ノートのことをひた隠しにしていたため、しばらくはアメリカ国民も国会議員もその存在を知らなかった。それでハミルトン・フィッシュはすごく怒っている。アメリカ国民にも覚醒していただきたい。」と、戦勝国史観の誤りを指摘されました。
歴史学者・日本経済大学准教授 久野潤様
歴史学者・日本経済大学准教授の久野潤様は、「本日8月18日は、今から80年前に占守島の戦いがあった日である。この日にソ連がカムチャッカ半島から攻めてきた。日本軍は終戦の詔勅後で停戦命令を受けていたが、ソ連が北海道まで攻め込むかもしれなかったので、第5方面軍司令官の樋口季一郎中将は反撃を指示してソ連軍を一度は撃退した。しかし、ソ連が再度攻撃してきたときは、武装解除されていて、奮戦した方々はシベリアに抑留された。本当に酷い話である。樋口季一郎中将のことはなかなか知られていなかったが、ユダヤ人の働きかけもあり、昨年10月に淡路島の伊弉諾神社に銅像が建立された。さらに、ソ連軍を占守島で撃退したときに活躍したのが少年戦車兵だった。その戦没者が祭られている神社がある。少年戦車兵が育成された陸軍少年戦車兵学校が今の静岡県富士宮にあったが、その跡地に戦後若獅子神社が建てられ、この学校出身の戦没者が祀られている。境内にはサイパン島から下田四郎さんによって持ち帰られた戦車が展示されている。二台持ち帰られて、もう一台は靖国神社の遊就館に奉納されている。靖国神社は英霊の慰霊顕彰の場所である。靖国神社にとって最も重要なお祭りが、四月と十月の例大祭である。だから、安倍元総理のように四月と十月の例大祭に玉串を奉納するのが正しい。私は奈良県出身なので、奈良市の三笠霊園に一般参拝が可能になった7月3日に早速行ってきた。当初安倍元総理の慰霊碑が建つと聞いたので、私は関係者に慰霊碑という呼び方だけはやめようと伝えていた。ただ、慰霊碑というのはメディアが勝手に報道していただけで、実際には『留魂碑』が建てられた。これは吉田松陰の遺書『留魂録』から名付けられたものである。慰霊碑というものは、ほとんどが戦後にできたものである。戦前は、忠魂碑や表忠碑と呼ばれた。慰霊碑が全国にたくさんあり、慰霊祭が行われているが、そのことで自虐史観が広まった。建てた人々は戦争の実態を知っていたが、それを引き継いだ我々がその意味を歪めてしまった。慰霊顕彰のうち慰霊の意味だけが大きくなり、『かわいそうだ』とか『悪いことをしてごめんなさい』といった考えが広まり、顕彰の意味が消えてしまった。だから今、顕彰を取り戻さなければならない。学徒出陣が昭和18年10月21日神宮外苑で壮行会が行われた。学徒出陣に行かれた学生の気持ちを知るうえで、最も読んではいけないのが『きけわだつみのこえ』である。これは改竄だらけで裁判にもなった本である。壮行会では東條英機首相らの訓示に対して、東京大学の江橋慎四郎さんは答辞の中で『生等もとより生還を期さず』と述べた。戦後メディアからこのことについて質問されたが、江橋さんは『生き残った自分は何も言えない』と答えなかった。学徒出陣で戦没した学生を今どう扱っているのか?『かわいそう』だとか『もう少し戦争が早く終われば戦争に行かずに済んだのに』といった扱いをしていたら慰霊顕彰とは逆のことになる。拓殖大学や亜細亜大学には戦没学徒を祀る神社が学内にある。明治大学にもあったが、今は新潟県の新潟県護国神社に移設して祀っている。私は慶應義塾大学出身である。小泉信三塾長はリベラルの代表のように言われているが、出陣する学徒に対して、『征け、諸君。君国のために。父母の墳墓の地を護らん為めに。』と言った。また、『海軍主計大尉』を書いたのは小泉信吉で、小泉信三の息子である。彼は卒業後に出征して戦死したが、息子を送り出すときの心境を小泉信三は、『北畠顕家公を送り出す親房公の心情で送り出した。』と言っている。そうした一つ一つの気持ちをきちんと受け止めていけば、我々が今想像しているのとはまるで違う学徒出陣の在り様が見えてくる。それが歪んで伝わってしまうとかわいそうだとか日本が悪かったという間違った話になり、顕彰が行われなくなる。」と、慰霊顕彰の本来の意味について語られました。
千葉県議会議員 折本龍則様
千葉県議会議員の折本龍則様は、「本日は山下先生のご紹介で、参加させていただいた。LGBT法案に対してアメリカのエマニュエル駐日大使が我が国に露骨な内政干渉を行い、自民党の国会議員がこれに賛成してしまったということに対して、日本人が声を上げなければアメリカに侮られてしまう。しっかり抗議活動をしていかなければならないと思い、7月4日の独立記念日に、エマニュエル大使に対して抗議文を渡そうとした。LGBT法案は日本の国体を破壊しようとするエマニュエル大使による文化破壊工作だと思っている。アメリカ国内でも深刻な分断と対立が起こっている。そのような法律を日本に強制しようとすることに対してしっかり抗議の声をあげた。今回の行動を一過性のものにしてはいけない。」と述べられました。
横浜市公立中学校社会科教諭 服部剛様
横浜市公立中学校社会科教諭の服部剛様は、「横浜で中学教師を35年以上してきた。歴史や公民で、非常に偏向した教育が日本中で行われてきたと思う。私は『日本人として生まれて良かった。』と思えるような授業を作っていこうと取り組んできた。そこで、歴史と道徳教科書で扱う人物についてお話ししたい。軍人を否定するのが戦後の教育では当然のことであったが、そのことがどのような弊害をもたらしているかについても話したい。子供たちの自己肯定感が低いことが話題になっている。高校生の意識調査で、『自分はダメな人間だと思うことがあるか』という質問に対して、『そうだ』と答える若者の割合が、他国と比べて日本が断トツに高い。日本財団の調査では、『自分は大人だと思う』『将来の夢を持っている』『社会課題を家族や友人等周りの人と積極的に議論している』という比率が他国と比べて著しく低い。日本では毎年2万人くらいが自殺しているが、うち10~19歳は749人で、平成の30年間では1万7009人が自殺している。また、15~39歳の死因の1位が自殺なのはG7では日本のみである。青少年自殺率の高さと自尊感情の低さと密接な関連があるという科学的知見がある。現場感覚では、『自己を愛せない教育』をずっとやってきたからだろうと思う。それは『祖国を愛せない教育』をやっているからである。祖国を愛せない教育が常態化している。自虐史観を端的に言えば、『あなたのご先祖様は人殺しですよ』と言っているようなものである。自虐史観による教育は教師による精神的ないじめである。これをずっとやってきている。そうすると生徒はやる気がなくなってきて、日本史の授業を嫌いになる。しかし、誇りある歴史を教えると生徒は本当に変わる。勉強が楽しくなる。青少年の自殺がニュースになると、教育委員会は子供に命の大切を教えなさいと言ってくるが、子供だってそんなことはわかっている。それよりも命の使い方を具体的に教えないと子供の心は成長しない。ここで軍人が重要になる。軍人は我々国民のために命を張って戦ってくれるのだから、すごい人たちである。軍人は立派な人だとわからないといけない。さらに戦場という極限状態のときこそ、人間の本性が出る。軍人が戦場でどんなことをしたのかを知ることが重要である。今歴史教科書に登場する軍人は乃木希典と東郷平八郎の二人だけである。軍人排除の方針でもあるのだろう。義和団事件の柴五郎中佐、坂東捕虜収容所の松江豊寿中佐、シベリアからポーランドの孤児を救出した日本陸軍と日本赤十字社、数多くの中国人を助けた黄河決壊事件、漂流する敵兵を救助した工藤俊作少佐、ペリリュー島で現地住民を避難させた中川州男大佐など、人種平等の精神が我々にはあって、戦争中であるにもかかわらず、人道的な働きをした軍人がたくさんいることを知ることはとても大事なことである。ユダヤ人救出で杉原千畝の話はよく取り上げられるが、道徳の教科書で、杉原が外務省に背いてビザを発給したと書かれている。しかし、これは嘘であり由々しきことだと思っている。杉原がビザを出すことができたのは、前例があったからであり、それは樋口季一郎によるオトポール事件である。その後シベリア鉄道を通ってユダヤ人が続々と避難してきて、この満州経由の脱出経路は『ヒグチ・ルート』と呼ばれた。杉原千畝の命のビザの話はオトポール事件の2年以上も後のことである。こうした話を生徒に説明すると、日本がどういう国だったのかがわかってくる。硫黄島の戦いで栗林忠道中将はどんな苦しい状況になっても『玉砕』を許さなかった。それはなぜか生徒に考えさせる。凄まじい戦いだったので、早く楽になりたいと思った兵士も多かった。栗林中将の手紙を読むとそれがわかる。愛する人々が一日でも長く無事でいてほしいという思いからである。ちゃんと教えれば中学生でもちゃんと理解できる。我々のために戦ってくれたりいろんなことを成し遂げてくれたことで、今の自分たちがあることを健全な歴史観に基づいて知ることがとても大事である。このことが先人への感謝の気持ちを生む。そして、自分の中に偉人の生き方に共感する自分を発見する。それが誇りの芽生えになっていく。こうしたことを積み重ねていくことで、自尊感情につながっていく。こうした教育を少しでも広げていきたい。」と現在の教育の弊害と軍人について教えることの重要さを説かれました。
一般社団法人板垣退助先生顕彰会理事長 高岡功太郎様
一般社団法人板垣退助先生顕彰会理事長の高岡功太郎様は、「私が板垣の顕彰をしている理由は、私が板垣の玄孫だからである。55年前の昭和43年に佐藤栄作先生が、明治維新100年で板垣50回忌という年だったので、この顕彰会を創設された。板垣が創った愛国公党並びに自由党が今の自民党に受け継がれていることを明らかにするために創られた。品川の板垣の墓地の横に『板垣死すとも自由は死せず』と佐藤先生が揮毫された石碑がある。その裏には板垣退助先生顕彰会建立と記されている。当時自民党参議院議員だった寺尾豊先生が会長となって、創設された会で、それを現在私が受け継いで、板垣の100回忌に向けてしっかり顕彰していこうと会を運営してきた。日本がやるべきことは、一つは男系男子による皇位継承を維持継承していくかたちを創っていくことである。そのためには、旧皇族の皇籍復帰が必要である。もう一つは国防である。国防を憲法の中に明記していかなければならない。そのために我々は憲法改正を目指して活動を行っている。今の憲法は板垣がいた時代の憲法から大きく逸脱している。しかも、GHQによってたった8日間で作られたものである。これを後生大事にしているが、日本の国柄に合わないので、変えていかなければならない。憲法学上は無効であるという考え方もあるが、天皇陛下の御名を拝して改正されたものであるので、改正の手続を踏むべきである。ただ、我々は憲法改正の先にあるものを見ている。それは、国連憲章の中にある敵国条項を改正することである。国連憲章の中の敵国条項は、現代における日本に対する不平等条約である。明治維新後に日本人が奮闘したのは不平等条約の改正のためであり、自由民権運動も不平等条約の改正のためであった。幕末と今とで日本の置かれている状況はとても似ている。だからこそ、幕末明治の先人に学ぶことがあるのではないかと考えている。板垣は、五箇条の御誓文の第一条の『広く会議を興し万機公論に決すべし』という言葉を基に国会を創った。自由民権に関する博物館には戦後史観に基づいた展示がされており、例えば板垣が明治憲法の制定に反対したかのような映像資料が流れていた。しかし、国会議事堂にある板垣退助の銅像は明治憲法制定50周年の記念に建てられたものであり、憲政の功労者の一人として板垣が選ばれたのである。板垣が本当に言いたかったことは、死ぬ前の著書『立國の大本』に収められている、『日本は侵略國家にあらず』、『社会主義の脅威』である。そして、『欧米のプロパガンダに気を付けろ』とも言っていた。板垣は、欧米諸国がアジア人を差別し、植民地支配をしていることに対しておかしいと言い、これを責めざるを得ないと言っている。さらに、我が国は正当防衛の必要性から支那と提携しなければならないにもかかわらず、欧米は我が国が侵略主義を持っていると言って、支那との離間を図ろうとしてきたと指摘した。その上で、『日本は侵略主義にあらず』と述べている。こうしたことを学校教育で教えてほしい。『板垣死すとも自由は死せず』という言葉は有名になったが、板垣が死の前に言ったことについて知らない方が多いと思ったので、100回忌に当たって本を出版した。国家のために何をすべきかということを世に問いかけていきたい。」と、板垣退助の言葉と日本の取り組むべき課題について語られました。
株式会社メキキホールディングス研修・道場事業部長 小笠原悦子様
株式会社メキキホールディングス研修・道場事業部長の小笠原悦子様は、「私は岩手県の釜石市で生まれたが、友達から『遊ぼう』と言われても『後で』と言って断わることができずに母に断ってもらうような子供だった。それが、20代の時に、五反田駅の電話ボックスに小さな広告をペタペタ貼っている人がいて電話を使えず多くの人が並んでいたので、こんな迷惑なことはないと思い、電話ボックスに入っていった。『お前何するんだ!』と言って胸倉をつかまれたが、両隣の電話ボックスから男性が来てくださったので助かった。その時に、『後で』が言えない子供だった私が、誰かが困っているところを見ると人のために行動することができることに気付いた。大和心はそのような精神を持っている。『小川がさらさら』、『雨がしとしと』。大和の人は物言わぬ声を聴くことができる。日本語にはオノマトペという状態を表す言葉が非常に多いと言われている。何年か前に車を運転していて、右折したところに突っ込んでくる車があってぶつかった。その人は女性で、地元だったのでご主人を呼んで『ああでもない、こうでもない』と話していた。その時に私の主人が『痛み分けだよね』と言い、この一言で相手の夫婦は黙った。これを漢語でいうと『折半』となるが、響きが違う。大和の言葉にはこんな力がある。コロナでしばらくできなかったが、釜石出身者の集まりが四年振りに東京で開催された。その会の終わりに、ある高齢の男性が石森会長を呼べと怒鳴ってきた。その光景を見たときに私は笑いが止まらなかった。私がその男性に、『石森会長と早く話したかったんですね。』と話しかけると、怒っていたその男性が急ににこっと笑い、『俺はあいつが好きなんだ。』と話し出した。怒っている人のその奥にある声を聴いて受け取ってあげると怒りが静まる。また、ある男性は、家に帰ると毎日奥さんが『太郎が…』と子供の愚痴ばかり話すので、『どれだけ太郎を愛してるんだ!』と言ったら、それ以降愚痴を言わなくなった。日本人は、人が思っている本当の声を聴くことのできる研ぎ澄まされた感覚を持っているが、最近のZoomなどのオンラインでは裏で別のことをしていたりして、話の辻褄が合わないことがある。本当は聴く力があるのに今は忙しくて本当の想いの声を聴かなくなっている。それが嘆かわしく、危惧している。日本人が本来持っている研ぎ澄まされた言葉にならない声を取り戻したいと思っている。AIの時代で良い仕事をするが、思いを馳せることはできない。思いを馳せて日本の心を継承していこうではありませんか。」と、大和心の大切さについて語られました。
最後に塾長は、「今日も講師の方々から素晴らしい話をして頂いた。現在『真の近現代史観』懸賞論文の募集をしている。8月末が締め切りなので、こぞって応募頂ければ幸いである。」と述べて会を締め括りました。