第136回 勝兵塾月例会レポート
公開日:2022/10/26
塾長・最高顧問 元谷 外志雄
勝兵塾第136回月例会が、10月20日にアパグループ東京本社で開催されました。
冒頭のアパグループの元谷外志雄会長による塾長挨拶では、「本日の産経新聞で、『習近平、反腐敗の成果強調』という記事を読んだ。習近平帝国とも言える軍事独裁国家がどんどん力を付けてきた。14億人の人口の国が経済力を付け、その経済力が軍事力となって周囲を圧迫してくることに、日本も備えていかなければならない。中国では習近平が、これまで二期十年としていた国家主席の任期を撤廃して三期目となり、反腐敗の名の下で政敵を追いやって、政権を維持しようとしている。日本にいると、当たり前のように平和がいつまでも続くかのように思いがちだが、隣国に対する警戒心も必要である。この勝兵塾を、様々な講師の話を聞き、質問等を通じて本当の事を知る機会として頂きたい。」と、述べました。
元東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長で参議院議員 橋本聖子様
元東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長で参議院議員の橋本聖子様は、「コロナ対策をしながらいかに世界の皆さんを安心安全に受け入れるかという中で、会長の大変な計らいでアパホテルを一棟貸しして頂いた。このお陰でクラスターを生むことなく、全てにおいてしっかり対応することができた。今回の大会での一番大きな課題は、全てをバブルとバブルで繋げていくことだった。水際から出口まで、産業と省庁と自治体といった全てのステークホルダーが一つにならなければ、この大会をやり遂げることはできなかった。その中で、100万回のスクリーニング検査でコロナを見える化し、正しく恐れたことで、感染率を全体で0・03%に抑えることができた。組織委員会の職員は約8、000人いたが、警備やボランティアなど、すべての方々を含めると、関係者は約70万人になった。医師会や尾身会長をトップとする分科会からは、『一番良いのは中止してもらうことだ。』と言われたが、温暖化や自然災害と同じように、全ての国がコロナという同じ課題に向き合っている時に、解決策を持って進む姿を見せることが、日本が課題解決の先進国であることを世界に発信する最大のチャンスだということをお話ししながら理解を求めていった。開催すれば一般病棟をすごく使うだろうと言われたが、結果的には約70万人の関係者の中で、コロナで一般病棟を借りたのは5人だけで、残りは独自の医療システムを確立し、その中で対応した。独自の医療チームを持つことがポイントだったと思う。ゲノム解析、集団免疫をはじめ、あらゆる専門家に集まって頂き、医学的、科学的に検証を重ねながら、組織委員会が安心と安全を守る事ができるという信頼を得て行こうと対策を取った。その結果、この東京大会では世界初の次世代研究ができた。晴海の海の傍に選手村があり、1万人の選手らが毎日暮らした。選手村からしか流れて来ない下水を毎日採取して研究者に調査して頂いた。毎日検査して陽性者がほとんど出なかった選手村にも拘らず、毎日のように下水からコロナウイルスが検出された。206もの国と地域の方々が同じ地域に暮らすということは通常はあり得ないことであり、オリンピック・パラリンピックだからこそこうした調査ができた。その結果、日本で一度も見たことが無い型のウイルスが検出された。陽性者が出ていないのに下水からコロナウイルスが出たことから、これから世界でコロナのような感染症が発生する可能性に対して、下水を調べることで未病対策のようなものになることを示すことができた。コロナ対策で隔離状態にすることで、アスリートや関係者にはストレスが溜まる。そこで、選手村では医療と治療、コンディショニング、トレーニングという4つの部門を統合した。医療の観点から選手のデータはすべて共有して、選手がセンターに通えば健康になれるというシステムを確立し、毎日3、000人の選手がトータルコンディショニングセンターに通ったという実績を作った。地域の医療と組んでこうしたことができると、医療費を大きく削減することができる。いかに健康寿命を延伸させて、心身共に活力ある社会を実現させることが重要であるかということを、東京大会から発信していきたいと思った。医療モデルと社会モデルを融合させることで真の健康を求めていき、1年間で40兆円を超える医療費、社会保障費を健全なかたちで未病対策にシフトすることで、予算を必要なところにシフトしていくことができる。その転換点が今であることを示すことができたのが、この東京大会である。それをレガシーとして、次世代の方々にこれだけのことができたという誇りを持つことができるよう、これからも発信を続けていきたい。」と、東京五輪の意義について語られました。
衆議院議員 小森卓郎様
衆議院議員の小森卓郎様は、「昨年10月の衆議院選挙で初当選したが、それまで30年近く国家公務員をしていた。財務省では防衛予算などを担当し、防衛省でも2年間会計課長をやり、防衛予算では査定する側と要求する側をそれぞれ2年間担当した。中央省庁で課長を5、6年やってきて、行政における政策決定で、政治の力、政治家の持つ影響力が強くなってきているのを感じた。私は転身する前から、政策的な指示を出す政治家とそれを受ける側の現場とのコミュニケーションがもっとうまくいくべきではないかと思っていた。私自身が政治家になるつもりはなかったが、石川一区で馳浩さんが、今年3月の知事選に出るため昨年の夏には衆院選に出ないとおっしゃったので、私に声が掛かり、新しい立場から国益の実現、国民の生活の改善のために頑張っていきたいと思い出馬した。日本の平和と安全を守るために頑張っていきたい。今回のロシアのウクライナ侵攻が大きな注目を集めているが、それ以前に、特に東アジアにおいて過去20年、30年の間に大きな変化が進行していた。日本の防衛力はGDPの1%くらいで推移してきたが、かつて日本は、東アジアで圧倒的な経済力、国力を振るい、その時代だからこそそれが許されたと思っている。この30年で中国は防衛力を約40倍に伸ばしたが、同じ期間に日本の防衛力はほぼ変わっていない。30年前の、日本が中国より10倍大きかった時代であれば、自ら手を縛って抑制的にやることも正当化できたかもしれないが、今や中国の国防費が日本の4倍になった。私は15年前に財務省で防衛予算を担当し、3年前から昨年まで防衛省の会計課長として防衛予算に携わったが、この間に大きく世の中が変わってしまった。日本が防衛力を強化していかないと、東アジアにおいて不安定要素を作り出してしまう。大きな目で見ると、東アジアこそが世界で最も緊張を孕んでいる地域である。これから十数年の間に中国のGDPはアメリカを一時的に超える。少子化の影響で再びアメリカが抜き返す時期が来るが、二大経済大国の力が近接する時期は、難しい局面になる。その中で日本がどのようにして世界の平和に貢献し、自らの国の平和と安全を守っていくのかを考えなければならない。昨年の初当選以来、自民党内で今年末の防衛三文書の改定に向けて議論を重ねてきた。反撃能力や防衛装備品の海外移転を含め、新しい時代に適合しようと提言をしている。後2カ月で最終的に結論が出て、今後5年、10年の日本の防衛力を決める大きな決定がなされる。少しでも良い結果になるよう頑張って参りたい。また、日本経済の成長にも貢献していきたいと思っている。将来の飯の種、食い扶持をしっかり作ることが、将来世代にバトンを渡していく者の責任である。とりわけ、20年、30年後に日本を引っ張る大企業を作っていかなければならない。戦後草創期には、ホンダやソニーなど様々な大企業ができたが、経済成長していく中で、残念ながらそうした企業を輩出することができなくなった。新しく挑戦する人たちを応援する仕組みに社会を変えていかなければならないという強い危機意識を持っている。今年6月の骨太方針の4本柱の一つにスタートアップ支援が位置付けられた。これは非常に画期的なことである。今年の末に、5年で10倍増を視野に入れたスタートアップ支援の5カ年計画を作るよう政府で取り組んでいる。とても意欲的で、私も力付けられているが、これも12月の税制改正や制度改正でどれだけ意欲にふさわしい措置が盛り込まれるかによって政府の本気度が問われる。」と、安全保障や産業育成に対する思いを語られました。
一般社団法人空の神兵慰霊顕彰碑護持会代表理事 奥本康大様
一般社団法人空の神兵慰霊顕彰碑護持会代表理事の奥本康大様は、「『空の神兵』と呼ばれる陸軍落下傘部隊は、インドネシア・スマトラ島にあるパレンバンに奇襲攻撃をかけて、大量の石油を確保した。このことによって、日本は大東亜戦争を3年8カ月も継続することができた。それがなければ日本は植民地になったり連合国の分割統治を受けたりしていたかもしれない。大東亜戦争の顕彰は日本人にとって最も重要なことだと思い、戦争についての講演会を開いてきた。名もなき人たちが南方で散華された。私の活動のモットーは『英霊は二度死なせてはいけない』である。一度目は肉体の死、二度目は皆さんの記憶から消えてしまう死である。いつまでも日本に貢献して頂いた英霊を顕彰して頂きたい。先週太宰府天満宮に講演で招かれた際に、唐津にある市丸利之助中将の墓を訪ねた。市丸中将は硫黄島で栗林中将と共に戦い、玉砕された方である。それ以前にルーズベルト大統領宛の手紙を書き、それがアメリカに渡って公表され、アメリカでもルーズベルトのやっていることに対して疑問が呈されるようになった。しかし、唐津でも最近は市丸中将の事を知らない人が多い。これではいけないので、慰霊と顕彰を続けていきたいと思う。昨年私は出光佐三に関する本を出した。出光佐三は石油業だけでなく、様々なことをやって来たが、その中の一つが草地貞吾さんの支援である。草地貞吾大佐は関東軍の参謀で、シベリアに11年間抑留された。ソ連は労働をさせただけでなく、赤化教育をやり、共産主義に染まった者から日本に帰国させた。日本人同士で密告させ、密告されると戦犯収容所に入れられ、極反動分子と言われて、収容されていた日本人将校たちから吊し上げに遭うような状況であったが、草地さんはそれに負けずに日本人精神を貫き通し、11年間耐えた。草地さんは、シベリアは地獄だったと言っている。70万人が抑留され、10万人以上の方々が亡くなったが、そこでは日本で共産革命を起こすための兵隊を育てていたのである。草地さんは帰国して、あまりにも日本が脆弱になり、このままでは日本精神が失われると考え、大分から東京に出てきて、日本立て直しの活動を始めた。そこで出光佐三と出会い、出光佐三は草地さんを嘱託として16年間生活の面倒を見て活動を支援した。村山富市が村山談話を出したことを発端に、草地さんは大東亜戦争が聖戦だったことを訴えるために、大東亜聖戦大碑の建立を発案され、同じくシベリアに抑留された金沢の中田清康さんと共に寄付を集めて建立した。現在、元谷会長に護持会の最高顧問になって頂き、毎年8月4日に大東亜聖戦祭を開催している。大東亜戦争が聖戦だったことを伝えていかないと、『日本は侵略した悪い国だ』という認識が定着してしまう。大東亜聖戦大碑を建立した草地貞吾さんの本当の思いを継承していくことが大切だと思う。シベリアで10万人以上の人々を殺したのはソ連であることを忘れてはならない。日本は正しい戦争をしたことを肝に銘じて頂きたい。」と、英霊の顕彰の必要性と大東亜戦争の意義を訴えられました。
特定非営利活動法人健康大学校代表理事 清水誠一様
特定非営利活動法人健康大学校代表理事の清水誠一様は、「私の父は硫黄島に軍医中尉として赴任していた。父は野戦病院の塀に横文字で、『この野戦病院には日本軍の重病重症患者が多数収容されている。アメリカ軍におかれては、万国赤十字条約に基づいて丁重なる扱いを強く求めるものである』と書いたが、アメリカ軍は攻撃し、半数の人が亡くなった。しかし、それを見たアメリカ軍将校が攻撃を止めさせて残りは生き残った。戦死の公報も遺骨も遺髪も届いたので、母は父が死んだものと思って葬式をしたが、約2年後に父が帰ってきた。昨今テレビを賑わせている統一教会の問題で絶対に看過できないことが一つだけある。それは、文鮮明が講演で、日本列島を女性の陰部に譬え、韓半島を男性の生殖器に譬えて、日本は韓国に対して全てを差し出さなければならないと言ったことである。これは大変な侮辱である。日本国憲法は、『諸国民の公正と信義に信頼して』と前文に書いているが、どこに諸国民の公正と信義があるのか? とんでもない国家が日本の周りを固めている。それで何も感じなければ靖国の英霊達に本当に申し訳ない。普通の生活をしていた方々が招集をされて、戦地に行った。私たちはその魂の一部をどうして継承しないのか? それはマッカーサーが日本の歴史を歪曲したからである。歪曲された歴史は正されなければならない。例えば台湾でダムを建設した八田與一は、台湾では小中高校で教えられ、未だにそのダムはまだ使われていて、多くの台湾人から感謝されているが、日本の教科書には一行も載っていない。ここにも占領軍にしっぽを振ってきた残念な日本の現状がある。あの憲法はマッカーサーの幕僚だったケーディス、ラウエル、ハッシーの3人がたった1週間で作った。当然原文は英語であり、これが押し付けられた証拠である。当時国務大臣の松本さんが明治憲法の流れを汲んだ憲法試案を作ってGHQに持って行ったが、マッカーサーはそれを突き返し、マッカーサー・ノートを3人の幕僚に渡して憲法草案を作らせた。だから憲法第9条のような、誰が見てもおかしな条文がある。この第9条を変えずして国を守れるはずがない。政治家は、それを分かっていてもいきなりやると左派勢力の反発が強いので、少しずつやろうとしているが、もう間に合わない。戦後の日本はアメリカの経済至上主義に毒されている。すべての分野で経済論理が優先され、営利至上主義化した企業が横暴を極め、国家や国民から大きく離れている。そればかりか人間の価値がお金を持っているか持っていないかで決まるさもしい状況が、伝統ある日本の歴史や文化を歪めてしまっている。日本人の心とは、相手を信用し、助け、育て、運命を共にしていこうとする和の精神である。ただし、そこには甘えが存在する余地はない。強い共同体意識の下に、日本民族発展のため献身する相互扶助が基本である。そして、剛毅不屈な祖国愛と民族愛を再び取り戻していかなければならない。」と、日本国憲法のおかしさを指摘され、日本精神を取り戻す必要性を訴えられました。
一般社団法人シベリヤ抑留解明の会理事長の近藤建様は、「奥本さんや清水さんの話を聞いて感動せずにはいられなかったが、聞いている人の反応をどう思うか?」と質問され、奥本様は、「各地で戦争の話をしてきたが、半分以上の人はわからないという反応だった。だが負けているわけにはいかないので、何度も繰り返していく。昔出光興産に勤めているときに、『教育はザルで水を掬うが如く』という教えを頂いた。それくらい根気よくやらなければならないと思っている。」と答えられ、清水様は、「昭和天皇は敗戦の玉音放送の中で、東南アジアの国々が日本に協力してくれたにも拘らず目的を達することができなかったことを詫びると共に、原爆投下に対して抗議をされている。皆さんの意識の中には『堪え難きを堪え、忍び難きを忍び』という部分だけが刷り込まれ、嘆き悲しんでいる印象が植え付けられている。しかし、明らかに抗議しているが、ほとんどの方がそのことを知らない。」と答えられました。
参議院議員 石井苗子様
参議院議員の石井苗子様は、「岸田総理の所信表明演説では、安全保障についても『あらゆる選択肢を排除せず現実的な検討を加速する』と言っているだけである。日本の安全保障についてどうあるべきかお考えをお聞きしたい。」と質問され、奥本様は「軍隊を作らないといけないと思う。父が26歳くらいのときに憲法が制定されるということで手記を残したが、その中には占領が終われば必ずや独自の憲法を作り、軍隊が復活することを信じているというようなことを書いていた。今の我々も同じ気持ちだと思う。」と答えられ、清水様は、「まずは憲法を変えるところから始めなければならない。さらに、日本は占領軍が進駐していた時に武装解除したが、その後朝鮮半島で火が吹き、進駐軍が朝鮮半島へ移動し、その空白を埋めるために警察予備隊が創られた。その初期の任務の中には占領軍に代わって日本を監視することがあった。こうした歴史的事実も知ってほしい。」と答えられました。
株式会社HAYAコーポレーション代表取締役会長 小塩一様
株式会社HAYAコーポレーション代表取締役会長の小塩一様は、「私の祖父である有末精三陸軍中将は、終戦時は参謀本部第二部長だった。広島に原爆が落とされた翌日には10名の軍人、科学者らを連れて広島に入り、爆心地に3日間いた。それが祖父は96歳まで生きた。放射能被害など本当にあるのか。原爆を造った者が風評被害で脅したのではないかと思う。伊藤忠時代にも原爆手帳を持っている先輩が何人かいたが、皆まだ生きている。祖父は終戦後陛下からマッカーサーの厚木出迎え委員長を拝命した。祖父は命を懸けて受命し、家族に青酸カリを24時間携行させた。最初にやったのが厚木の便所掃除である。それを海軍にやらせた。陸軍には近所から銃や刀を取り上げさせた。さらに、帝国ホテルにサンドイッチやジュース、ビールを大量に注文した。8月28日にマッカーサーの先遣隊であるチャールズ・テンチ大佐が来日した。向こうは殺されるかもしれないと警戒していたため、有末中将が待っていたところと反対側の滑走路に着陸した。天幕へ案内しても乾杯もできない状況だった。アメリカの事を知らない祖父は、士官学校の同期で京大からアメリカの大学に留学してアメリカの工兵として大隊長にまでなった鎌田銓一中将を北京から呼び戻した。鎌田中将が出てきたら、ピリピリしていたテンチ大佐は『オーマイボス!』と言ってハグした。そこで打ち解けて有末中将とテンチ大佐はオレンジジュースで乾杯をした。それを見たアメリカ兵はテントに集まってビールを飲み、サンドイッチを食べて、占領政策は先遣隊との間ではうまく始まった。次に8月30日にアイゲルバーガー中将が来た。アイゲルバーガー中将が祖父に『お前が代表か?』と聞いてきたので、祖父は英語で『イエス』と言うところを間違ってロシア語で『ダー』と答えた。するとアイゲルバーガー中将がロシア語で話し始めた。その中でアイゲルバーガー中将から原口陸軍中将の名前が出たので、原口中将との会食をアレンジした。それをアイゲルバーガー中将は喜んだ。いよいよマッカーサーが日本に到着する日の朝、『完全なる満足である。ジェネラル有末に深く感謝している。マッカーサー元帥はいかなるレセプションも受けない。ただ、ジェネラル有末本人の出迎えを受ける。』と連絡があった。マッカーサーが到着した後、厚木から横浜のグランドホテルに移動したが、その道中、武器を置いた丸腰の日本兵が10mおきに背を向けて立ってマッカーサー一行をガードした。その後マッカーサーは東京の第一生命のビルに入るが、今の日比谷警察の方にマッカーサーは陣取り、祖父は同じフロアの反対側に部屋をもらって終戦連絡委員長を拝命した。後にアメリカの新聞が、『有末精三陸軍中将は、敗戦を優雅さと誇りを持って受け入れようと決意し、実践し、日本の名誉を守った』と書いた。マッカーサーは帰国後、公聴会で日本の立場を弁護して、あの戦争は日本から見れば自衛の戦争だったと明言した。祖父はたまたま戦争で生き残り、そのような立場にあったが、日本を存続させるために一生懸命やった。靖国に祀られた亡くなった軍人たちだけでなく、生き残った軍人たちも青酸カリを抱きながら堂々と負けてやろうと戦った。そうした軍人たちも日本の礎になっていることを知ってもらいたい。」と、有末精三元中将の活躍について語られました。
最後に塾長は、「本日も様々な良いお話を伺った。日本は先の大戦で負けたとはいえ、頑張ったからこそ植民地にならず独立を保つことができた。相手が強かろうと、信じるところで戦わない民族は、いずれ滅びる。自分の信念に基づき、戦うべき時に戦う人間が今日の日本を創ったと思っている。日本が独立を保つことができたのも先人のお陰であると感謝している。」と述べて会を締め括りました。