第134回 勝兵塾月例会レポート

公開日:2022/8/26


塾長・最高顧問 元谷 外志雄

勝兵塾第134回月例会が、8月18日にアパグループ東京本社で開催されました。
 冒頭のアパグループの元谷外志雄会長による塾長挨拶では、「去る7月8日に安倍元総理が凶弾に斃れられたが、安倍さんはしっかりした世界観、国家観、歴史観をお持ちだったので、総理になられる前から『安倍さんを総理にする会』の副会長という立場で応援した。健康上の理由で一旦退任されたが、三度目の登板をされることを期待していた。そうした中で不幸にも凶弾に斃れられ、非常に痛ましい気持ちである。これまで安倍さんほどしっかりした世界観、国家観、歴史観を持ち尊敬できる政治家はいなかった。早く安倍さんの後を継ぐ政治家に出てきてほしい。第一回目の月例会で、『いずれ勝兵塾から総理を出す』と話したが、この勝兵塾に安倍さんの遺志を継ぐ方が参加し、いずれ総理になることを期待したい。」と、安倍元総理への思いを述べました。


関西勝兵塾顧問で前衆議院議員 長尾敬様

関西勝兵塾顧問で前衆議院議員の長尾敬様は、「安倍元総理が亡くなられて約1カ月が経過した。皆さんもそれぞれの立場で今後の日本がどうなるのか考えていらっしゃると思う。非常に不思議なのは安倍元総理が命を落とされたその死因が特定されていないことである。なぜ新聞の社会部は静かにしているのか。奈良県立医科大学の先生は、心臓の壁に損傷があったと言っているが、警察の発表では、司法解剖の結果心臓に損傷はなかったと言っている。その他にも双方の言い分が違っている。しかし、真実は一つであるはずだ。また、政教分離が間違って使われていることが明らかになったのも、今回の事件がきっかけである。8月15日に靖國神社にお参りするのは当然であり、総理大臣であれ、大臣であれ、国会議員であれ、あらゆる日本人の信教の自由は許されていて、憲法第20条で保証されている。しかし、相変わらず左派は、靖国参拝は政教分離に違反していると言っている。政教分離とは政治が特定の宗教を優遇したり、弾圧したりしてはいけないということである。一方でマスコミは、現在弾圧すれすれのことをやっている。いわゆる霊感商法に関する主張が双方で全く異なっている。一方は、訴訟や相談など、すべて含めたと思われる件数を言っており、もう一方は、2009年以降訴訟の数は1桁、2桁となっていると言って、その差は10倍にもなっている。真実は一つである。なぜこれを社会は追究しないのか。午前中に私のところにも記者が来て、『(統一教会と)今後も付き合うのか』と質問したが、事実がわからないから答えようがない。反社会的団体ならきっぱりと縁を切るが、それを証明している方がいるのか? 確かに被害者はいらっしゃるが、これは消費者契約法でしっかり対応することができる。私は生命保険会社出身であるが、私が居た業界も行き過ぎた営業で、今も訴訟などで消費者契約法に抵触する問題が出てきているのが現実である。しかし、私が勤めていた会社が社会的制裁を受けているわけではない。一部の野党の方々は国会を開いて『宗教国会』と名付けてやるのだろうか? 内向きの、しかも国会で審議をする必要のないことをやる必要があるのか? ペロシがあのタイミングで訪台し、中国が大変な勢いである。1995年、96年の第三次台湾危機の折には中間線ギリギリのところであったが、今回は台湾をぐるりと囲んで6カ所の台湾の防空識別圏の内側で軍事訓練を行い、8月4日には日本のEEZに5発の弾道ミサイルをぶち込んだ。一部の報道によれば、外務大臣がなかなか捉まらなかったために発表が遅れ、その結果、本来であれば呼び出して叱責するべきであるが、森事務次官が孔鉉佑中国駐日大使に電話で抗議した。安倍元総理は、台湾有事は日本有事だと話し、7月下旬に訪台する予定があったのではないかと言われている。安倍元総理が今この瞬間に残している遺志は、台湾問題への取り組みだと思う。8月4日にミサイルをぶち込まれた翌日に、岸田総理が口にした言葉は、『内閣改造を前倒しする。』である。総裁選の折、総裁選が終わったら何をやるかと聞かれて答えたのが、『人事をやる』だった。しかし、安全保障と内閣改造前倒しはどちらが優先されるべきであるか。人事を優先していたからNSCを招集しなかったのなら、なぜ野党はこれを追究しないのか。これが国会の責務だと思う。」と、安倍元総理の死因や政教分離、台湾問題について語りました。


日本経済大学准教授 久野潤様

日本経済大学准教授の久野潤様は、「8月15日を迎える度に政治家はマイクを向けられると、一部には『追悼』、『供養』と言う方がいる。しかし、『供養』は仏教用語であり、『追悼』は無宗教の用語として使われるものである。靖国神社や護国神社でするべきことは、『慰霊』であり『顕彰』である。だからこそ、あの戦争が侵略戦争だったという歴史観では困る。戦後は日本が悪かったという歴史観が広まり、少し勉強した方はアメリカが悪かったのではないかという反米史観にまで行き着いたが、つい最近まで、ハルノートを書いたのは実質的にはアメリカではなく、アメリカの背後にコミンテルンがいたという話が出てこなかった。つまり、ロシア、ソ連の悪辣さに気付かなかったのである。だからこそ、今回のロシアの侵略を目の当たりにして、歴史から教訓を得ようというのが今日の話である。ロシア、ソ連が日本に対していかに悪さをしてきたかという事から目を逸らさせるように、教科書には反米史観がちらついている。私も東京裁判は許せないが、それとソ連の悪辣さとは別次元のものである。例えば、教科書を読むと、アメリカの黒船がやってきて幕末の国難が始まったように見えるが、ペリー来航は1853年である一方で、ロシア船が18世紀の終わりから日本に来ている。根室、長崎に来た後に1806年には文化露寇として樺太、択捉を焼き討ちにするという侵略行為まで行っている。それでロシアに備えようという話が出てきて幕末の志士たちが動き出した。ペリー来航で日本が動き出したというのは単なる反米史観である。また、ハルノートが強硬な最後通牒だったからやむを得ず日米開戦をしたと強調する人が保守の中にもいるが、ハルノートにも前段階がある。中国戦線が拡大して対米関係が悪化した。近衛文麿首相(当時)は日米交渉でアメリカとの戦争を避けようとした。そのため、日米予備交渉の際に日本は、アメリカの聖職者であるトラウト神父とウォルシュ司教を通じてルーズベルト大統領の意思を探ろうとした。しかし、この神父と司教はコミンテルンのスパイで、まんまと騙されてルーズベルトに時間稼ぎをされ、あのタイミングで開戦せざるを得なくなった。しかも近衛文麿は、戦争を避けるため自分は殺されてもいいからルーズベルトと直接会談すると言ったが実現せず、その間ルーズベルトはチャーチルと大西洋会談を行い、日米開戦前からアメリカはイギリスと戦後の国際秩序を牛耳ろうという相談をしていたのである。そうしているうちに、近衛内閣は尾崎・ゾルゲ事件が起きて倒れた。近衛のブレーンで近衛が一番信頼していたジャーナリストの尾崎秀実がソ連のスパイとして逮捕され、内閣は総辞職した。こうして滅茶苦茶になった後に政権を任されたのが東條英機である。さらに、ハルノートも、コーデル・ハル国務長官が反日だったわけではなく、むしろ日本に対して疎かったというのが正確なところである。ソ連のべリヤ内務人民委員が腹心のパブロフという人物を使って、アメリカ財務省ナンバー3のハリー・D・ホワイト財務次官補に近づけて、対日強硬案を出させるために草案を渡し、ホワイトはトップのモーゲンソー財務長官からの信頼が厚かったため、その草案がそのままハルに伝わり、ほぼ原案のまま日本に突き付けられて日米開戦となった。日本は本来ウクライナと共有する歴史がある。いずれも700年前に世界最強だったモンゴル軍と国を賭けて戦った。日本は二度に亘る元寇を何とか撃退したが、キエフ大公国は総力戦の末滅亡した。大東亜戦争末期には、日本は連合国軍で密約があることを知らずに、ソ連を仲介にして講和をしようと甘いことを考えていたが、8月8日の終戦間際にソ連が日ソ中立条約を破棄して対日宣戦布告してきた。8月11日に南樺太に侵攻、終戦を超えて本日8月18日には占守島に侵攻し、さらに北方四島に侵攻してきた。占守島では3日間持ち堪え、日本軍は10倍以上の規模のソ連軍に対して6倍の損害を与えた。私はその戦車戦に参加した人達に話を聞いてきた。話を聞いて必死に戦ったことが伝わってきたが、皆ソ連が攻めてくるとは思っていなかったと言っていた。今もソ連(ロシア)がとんでもない国だと教わっていないし、当時もソ連がとんでもない国だと教わってこなかった。これは戦前からの痛恨の失策だったのではないか。だから、ウクライナと共有する歴史とは、ソ連(ロシア)の卑劣な侵略を受けた経験があるということである。東京裁判も許せないが、その反米が反日に繋がることもあり、今言って国益につながるか、慎重に考えなければならない。」と、ソ連、ロシアの悪辣な歴史を解説されました。


ライター・エディター マイケル・マーティン様

ライター・エディターのマイケル・マーティン様は、「本日は神道の歴史について話したい。近現代史の教科書問題に関する議論が反日的な目的で行われていることは御存じだと思うが、アカデミックな場面でも、日本の歴史の教科書が書き換えられるという、あるまじきことが行われている。神道は日本人のアイデンティティの一つであると思うが、そのアイデンティティが徐々に、継続的に侵される対象になっている。神道の正当性を疑問視することで学者たちは日本人の証の根幹を壊し始めている。こうしたことは学会では問題になっていないが、私は非常に問題視している。1970年頃までの学術的な論文では、神道は日本のものであるという理解をされていたが、1980年代中頃から神道が日本のものではないという議論が論文などで見られるようになり、例えば、『神道』という言葉自体に『?』が付けられるようになり、実際には存在しないという意味が込められるようになった。さらに、神道に基づく建築や儀式は中国の影響を受けている、という主張を見るようになった。陰陽道や神仏習合なども中国の影響を受けたという表現が非常に多く見られるようになった。私の手元にある『日本における道教』という本には、中国の道教が伊勢神宮の建築や京都の街並みにどのような影響を与えたかということが書かれている。古事記や日本書紀に関しても中国の書物との類似性を研究したものも多く見られるようになった。そして挙句の果てには、神道はそもそも明治時代より前に存在したのかという表現も見られるようになった。日本という国の存在自体が脅かされていて、日本という言葉自体が論文の中で少なくなり、代わりに中国圏という言葉が使われるようになってきた。中国、韓国、日本を中国圏と捉える考え方が彼らにはある。もちろん、日本の文化が中国の影響を一部受けていることは事実であるが、彼らは日本が中国の一部という表現をしている。もしそのような状況が進むと、日本が無くなり、中国の一部と認識されるようになる。そうすると、中国からの侵略があっても当然の事という見方になってくる。これらの傾向が最近見られる理由は、中国政府がこうした研究にかなりの資金を投じているのではないかということが考えられる。もう一つは、ナショナリズムが悪でグローバリズムを善とする学会の傾向がある。神道は日本のアイデンティティそのものであり、皆さんがこのような状況を理解し、誇りを持ってもらいたいと思う。」と、アカデミズムにおける日本の危機について警鐘を鳴らされました。


前衆議院議員 原田義昭様

前衆議院議員の原田義昭様は、「長尾君から立派な安倍論があった。私は安倍政権で環境大臣をさせて頂いたが、それ以前のことで最も記憶に残っているのが、衆議院の議員運営委員会で国会対策をやっていたときに取り組んだ、教育基本法の改正と防衛庁の防衛省への昇格である。教育基本法の改正は、教育に愛国心をどう取り入れるかという論点で、日本人が日本を誇れないのはおかしいという問題意識があったが、相当激しい議論があったため、運営委員会の理事が3人病気になってようやく実現した。防衛省の存在は、今は当たり前になっているが、10年くらいかけて議会闘争をした。先程ペロシの話が出たが、非常に勇気ある行動だったと思う。様々な論評がされているが、その中には、ペロシの訪台が中国に台湾攻勢のレベルを上げるきっかけを与えたからやるべきではなかったというものがある。しかし、中国の行動を断固として許してはならない。それを許すことは、敗北主義であり、負け犬根性である。その後アメリカ議会が再度訪台したが、日本の議会にもそれくらいの気概を見せてもらいたい。」と挨拶をされました。


参議院議員 石井苗子様

参議院議員の石井苗子様は、「8月15日の度に思い出すのが父方の祖父である。祖父は戦艦榛名(はるな)の艦長だったが、今の日本を見て8月15日の度に申し訳ございませんでしたと謝るしかない。中学時代は広島に居たが、当時の社会科の先生は『日本国は謝罪をしなければならないのだ』と言って日本を全面否定するような人だった。日本の神道や国の魂というものが、敗戦によってあらゆる反省を強いられていた。77年前の終戦時には悲しさと悔しさと貧しさと怒りで国民の心が一つになっていたと思う。これからエネルギーの乏しい国で、半導体で巻き返そうという若い人達の気持ちが実るような国会にしていきたい。」と挨拶をされました。


一般社団法人シベリヤ抑留解明 会理事長の近藤建様

一般社団法人シベリヤ抑留解明の会理事長の近藤建様は、「『士の道は義より大なるはなし』は吉田松陰が書いた言葉であるが、立派な人間が一番大事にすることは正義であり正しさである。正しさは実行されなければならず、実行するためには勇気が必要である。松陰はその言葉の後に、『義は勇によりて行われ、勇に因りて義は長ず』と書いており、私もこの言葉に励まされて活動している。半年ほど前に元谷塾長に決断する時の心構えについて質問したところ、塾長は『普段からの覚悟だ』と答えられた。私はどんな覚悟で生きていくのかと考えて、ようやく自分がやるべきことがはっきりした。それが、『シベリヤ抑留解明の会』である。シベリヤ抑留については一体何人が拉致され、何人が亡くなったか、亡くなった人々はどこで埋葬され、遺体は何体戻って来たかわかっていない。8月15日に靖国神社の脇で友人と共にチラシを配った。昨年は10人に1人しか受け取ってくれなかったが、今年は『ロシアに抗議する運動だ』と声を掛けたら、多くの人々が受け取ってくれた。シベリヤ抑留解明の運動を別名ツインバッジ運動と呼んでいる。このツインバッジを現在3名の国会議員が付けている。これをこれからどんどん増やしていきたい。今日は8月18日で、千島列島最北端の占守島にソ連が攻め込んできた日である。『解明の会』を始めた動機は、周囲にシベリヤ帰りの人から話を聞いたり、シベリヤ抑留記と言った本を何冊も読んだり、講演会を聴いたりして段々怒りが貯まってきたことである。そして最近では、根室沖で日本の漁船がロシアに拿捕され、400万円の罰金を取られて釈放された。その船長は間違いなく日本のEEZ内で操業していたのに証拠がないからと日本政府が何の応援もしてくれなかった。こうした怒りが溜まりに溜まって立ち上がった。ソ連は8月9日に戦争を始めて日本に攻め込み、5日後には日本はポツダム宣言を受諾して敗戦を認めたが、その後も9月5日まで日本を攻め続けた。その間にスターリンはシベリヤ開発のための労働力として日本人を拉致した。そして、飢餓と寒さと重労働、さらには仲間からの密告で多くの人々が亡くなった。しかし何人亡くなったかわからない。最後に昭和31年12月に最後の方が帰国した。私自身はこのツインバッジ運動を通じて過去との決着を付けたい。それなくしてあの国と仲良くすることができない。あの国が北方四島を返すわけはないが、北方四島は我が国の領土だという意識を持ち続けてもらいたい。歴史戦ではこれまで日本が反論しなかったから嘘が全て事実となり、韓国にも中国にも負けてきた。ロシアは日本に対して歴史戦を挑んでいる。日本と戦争したのは日本が細菌を世界にばら撒こうとしていたのを阻止した、そして日本は対ソ戦の準備をしていたと主張している。これに対して政治家もマスコミも勇気を持って反論しなければならない。」と、シベリヤ抑留解明への取り組みについて語られました。

勝兵塾事務局長の諸橋茂一様は、「インドネシア独立戦争に、残留していた元日本兵約1、000名が参戦した。インドネシアは昭和20年8月17日に独立宣言をし、独立戦争が約4年半続き、独立したのは昭和24年12月27日の事である。日本の敗戦後に、イギリス軍、オランダ軍が再びインドネシアを植民地にしようと乗り込んできた。約3年半にわたってインドネシアを軍政統治した日本軍は、約3万8千人のインドネシアの青年たちに基礎教育、軍事教育だけでなく、農業指導、『ホウコクカイ』や『セイネンダン』などの組織づくりと組織運営まで指導した。日本軍が占領するまでの350年間はオランダの植民地であったため、オランダ語と英語のみの使用を認められていたが、日本軍はマレー地域で使われていた言語を基に、インドネシア語として使うよう指導した。世界の歴史の中で被占領国に対してこれほど丁寧なことをした国はどこにもない。朝鮮半島の人達が全く事実無根のことを言っているが、元韓国空軍大佐の崔三然という方が真面目に正しい歴史を学んでこられたことは、彼の本を読んでよくわかった。中国人でも韓国人でもロシア人でも正しい歴史をまじめに勉強すればわかることであるが、真逆のことが教えられ、信じられている。こうした状況をいつまで放置するのか。平気で嘘をつき、平気で人のものを盗るような、日本人からすると全く理解できない国々が日本の周りにはある。それを陰で、中国が悪い、韓国が悪い、北朝鮮が悪い、ロシアが悪いとこそこそ批判していても仕方がない。日本政府や外務省が間違いを正し、真実を主張し続ければよい。憲法を第96条に則って改正すると言っても、いつまでたっても改正できない。実態として一歩も前に進んでいない状況が続いている。それでよいのか。国家の最大責務とは、領海領空領土を守り、天皇を中心とした国家体制を守り、併せて国民の生命安全財産を守ることだと定義付けることができる。守るべきものを本気で守り抜くためには力がなければならない。どのような戦力を持って守るのかを本気で考える必要がある。憲法第9条は国家の基本法ではない。わずか8日間で、英文で作成され、占領下の日本に押し付けられただけでなく、支離滅裂である。私はかつて村山富市に村山談話、河野談話、アジア助成基金の正当性を問う事を骨子として提訴し、最高裁まで争ったが、村山側の弁護団はその正当性を示すことは出来なかった。慰安婦問題で韓国に支払ったお金等は合計63億6、500万円である。しかし、感謝されることはなく、もっと謝れ、もっと金を出せと脅され続けられている。日本政府、外務省、政治家は近現代史をしっかり勉強して、真実の歴史はどうなのかを理解した上で、相手がどこであろうと間違いを正し、正しいことを主張していくべきだ。」と、正しい歴史を主張していくことの重要性を説きました。

最後に塾長は、「今日も素晴らしい話を聞かせて頂いた。真の近現代史観懸賞論文を募集中なので、こうした話を参考に論文を書いて、是非応募頂きたい。」と述べて、会を締め括りました。