第125回 勝兵塾月例会レポート

公開日:2021/11/30


塾長・最高顧問 元谷 外志雄

勝兵塾第125回月例会が、11月18日にアパグループ東京本社で開催されました。
 冒頭のアパグループの元谷外志雄代表による塾長挨拶では、「毎年1月4日に産経新聞見開き2ページの新聞広告を出していて、今その原稿を作成しているところである。『日本No・1から、圧倒的No・1へ』というキャッチコピーを掲げ、上段には今後オープンするホテルのパースを並べている。現在19棟8、243室が設計建築中であり、アパホテルネットワーク全体ではすでに676ホテル、104、494室となった。400室を超える大型ホテルだけでも45棟ある。広告を出すまでにまだ増えるかもしれない。需要を創造し、雇用を創出し、納税義務を果たしてきたことは評価されるべきことである。アパホテル会員数は2、000万人を超えた。東京都心に集中投資をしてきたが、需要のあるところに進出することで、できるだけ既存ホテルに迷惑をかけることなく拡大戦略を取ってきた。」「先日の新聞報道によれば、陸軍大国ロシアが海への覇権拡大を目指して、中国と連携して艦隊を組んで日本近海を周遊し、日本を威嚇する事態が発生した。これに対応して艦隊後方を世界最強の海上自衛隊の潜水艦で追撃したと思われるが、その潜水艦の数が不足している。今後新たに60隻から70隻の潜水艦を建造して海の守りを固めるべきである。」とアパグループの拡大戦略と日本の安全保障について語りました。


ジャーナリスト 葛城奈海様

第4回アパ日本再興大賞の受賞が決まっているジャーナリストの葛城奈海様は、「この度は第4回アパ日本再興大賞という栄えある賞を頂くことができ、嬉しく思っている。本日は拉致問題について話したい。政府が拉致被害者として認定している人数は17名で、うち5名が2002年に帰国され、12名が現在北朝鮮に残っている建前になっている。しかし、警察が認識している特定失踪者は、今日現在で873名いる。これだけ多くの方々が40年以上の長い間、北朝鮮に囚われて帰って来られないことを、私達国民はもっと深刻に受け止めなければならない。政府もこれだけ成果が出ていないのだから、やり方を猛省して、本当に取り戻すためにはどうすれば良いか、新たに考えて具体化していく必要がある。拉致問題にとても熱心だった安倍元首相も、『自衛隊を使って拉致被害者を取り戻すことは憲法の制約があってできないため、いざとなれば米軍に頼むしかない。』と発言している。思い出してほしいのは、8月にアフガニスタンで起こったことである。米軍撤退後にタリバンが勢いを増し、8月15日にはアシュラフ・ガニ大統領が国外に逃亡し、各国はアフガンにいる自国民らの救出のために軍用機を飛ばした。あのときにバイデン大統領は、『自国民が戦おうとしもしない戦いで、なぜ米国人が戦ったり死んだりしなければならないのか。そのようなことはするべきではない。』と発言した。この言葉を私達日本人は肝に銘じるべきである。私は尖閣問題にも長年取り組み、これまで15回にわたって現場海域に行ってきた。日本では首相や防衛大臣が変わる度にアメリカの要人に会って、『いざとなったらアメリカは日本の味方をしてくれるのか?』と確認し、毎回アメリカが『いざとなったら日米安全保障条約第5条に基づき米軍は日本を守る』と言うのを聞いて、本当に嬉しそうな顔をしている。しかし、日米安保条約第5条に基づいてアメリカが尖閣を守ると言っているのは、あくまで尖閣が日本の施政権下にある限りにおいてである。このまま事勿れ主義的な対応を続けていたら、気が付いたら尖閣の島々に五星紅旗がはためいていたということになりかねない。日本が領土領海を守るために血を流す覚悟をしていないのに、なぜ他国であるアメリカが自国の軍人の命を危険に曝してまで日本を守ろうとしてくれるだろうか。そんなお人好しの国はない。今回のアフガンはこの現実をまざまざと見せ付けてくれた。自国民を自分達で守るために、自衛隊を使って拉致被害者を救出するんだという機運を盛り上げていかなければならない。私は陸上自衛隊の予備三等陸曹である。公募の予備自衛官と元自衛官とで協力し合って予備役ブルーリボンの会を組織し、同会として『拉致被害者救出に自衛隊の活用を』と主張している。そのような話をすると、『自衛官の命を何だと思っているんだ』などと批判されるが、自衛官は入隊時に『事に及んでは命を顧みず、身を以って責務の完遂に努め、以て国民の負託に応える』と宣誓しており、心配すべきは自衛官の命ではなく、窮地に陥っている国民の命である。自衛隊の活用法は、例えば情報収集や、交渉の場に制服を着た自衛官が同席するだけで、これまでとは全く違った武威を北朝鮮に示すことができる。2001年に九州南西海域不審船事件が起こった。北朝鮮の不審船を海上保安庁の巡視船が追いかけて交戦し、不審船は自爆して自沈した。交戦した巡視船あまみは、呉にある海上保安大学校の資料館にひっそり展示されているが、実際に見ると、船橋が銃弾で穴だらけになっていた。これが戦後の日本にも国の尊厳を守るために戦った男達がいたことの貴重な証であり、平和ボケした頭に一石を投じてくれる貴重な資料である。そうした毅然とした対応をした結果、翌年から不審船の出現が止まり、翌年には拉致被害者5名が帰国した。拉致被害者の帰国にはその他の要因もあったとは思うが、前年に日本が毅然と武威を示したことの意味は大きかったと思う。私がタイトルを『戦うことは悪ですか』と付けた本の中で言いたかったことは、日本は尚武の精神を復活させなければならないということである。尚武の精神なしに日本国の真の意味での再生、再興はないと思っている。」と、拉致問題や尖閣問題について語られました。


東京国際大学学長・慶應義塾大学名誉教授 塩澤修平様

東京国際大学学長・慶應義塾大学名誉教授の塩澤修平様は、「自衛隊を使って拉致被害者を救済するために、具体的にどのように自衛隊を使っていくのか?」と質問され、葛城様は、「最もソフトなやり方が交渉の席に制服を着た自衛官が同席するということだが、最終的には軍事作戦で奪還することも想定して準備をしておく必要がある。いくら日本の自衛隊が強くて良い武器を持ち、軍人としての質が高くても、訓練と準備なしに作戦を遂行することはできない。陸上自衛隊には特殊作戦群という部隊があり、国会の議論の場で拉致被害者救出のために自衛隊を使うことを俎上に載せて自衛隊が準備をできる環境を作っていくことが必要である。」と答えられました。


国際経済政治学者・大阪市立大学名誉教授 山下英次様

第14回「真の近現代史観」懸賞論文最優秀藤誠志賞の受賞が決まっている国際経済政治学者・大阪市立大学名誉教授の山下英次様は、「私が受賞した論文のタイトルが『令和日本の独立運動』である。私は日本が歴とした独立国にならなければ何も始まらないと思っているが、日本を良くしようと活動している方々の中にも、そう言う人は少ない。独立国の三種の神器は『自前の憲法』『国防軍』『独立した国家情報機関』であるが、日本はどれ一つとして持っていないため、どう見ても独立国ではない。福沢諭吉は『学問のすゝめ』の中で『一身独立して一国独立する』と述べたが、これは今の日本にも当てはまる。なぜ多くの日本人には独立心がないのか? それはGHQの洗脳から脱していないからである。おそらく日本人の90%程度はまだ洗脳が解けていないだろう。1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し、本来であればこの日を『独立記念日』とするべきであったが、そうしなかったことが大失敗であった。そうならなかったのは、進歩的文化人は戦後アメリカによって初めて日本に民主主義がもたらされたと考えたからである。この進歩的文化人が丸山真男や宮澤俊義、横田喜三郎らである。GHQの占領政策の大きな目的は、一つは日本人の国家意識、すなわち国家への忠誠心を喪失させることであり、もう一つは日本精神を骨抜きにすることであった。このうち一つ目の日本人の国家意識が失われてしまったことが、極めて大きな問題である。戦後の日本について、1961年に大熊信行は『半独立国』と呼び、1970年に上山春平は『半主権国家』と呼んだ。講和独立後『国の真の意味の独立を目指そう』といった総理大臣は皆無である。保守系の人々の多くは、今の日本が本当の独立国ではないことは分かっているが、独立に向けた行動を何も起こそうとしない。私は2014年以来、メディアに対してGHQに加担して日本人を洗脳してきたことについて、告白・懺悔を求めて来た。歴とした独立国になること以上に重要な国家的課題はない。誰からの独立かと言えば、アメリカ合衆国からの独立である。しかし、『日本はアメリカの属国』だなどと思っては欲しくない。アメリカはこれまで何度も政策を間違ってきたので、アメリカが政策を間違わないように日本から積極的に政策をインプットするべきである。つまりアメリカを仰視するのではなく、鳥の目で俯瞰するような姿勢が重要である。日本の防衛政策には3つの根本的な錯誤がある。一つ目は自主防衛と同盟関係(日米同盟)の主客転倒である。二つ目は『専守防衛』の神話である。三つ目は『核の傘』神話である。核の傘が無効であることは60年前のケネディ=ド・ゴール会談で決着がついた話である。」と、日本の真の独立の必要性を訴えられました。


英霊の名誉を守り顕彰する会会長 佐藤和夫様

英霊の名誉を守り顕彰する会会長の佐藤和夫様は、「私は軍歌を歌い繋ぐというテーマで1月25日に軍歌を歌う会を計画している。軍歌に対して右翼だとか軍国主義だとかいうレッテルを貼って、軍歌が忘れ去られようとしている。しかし、軍歌とは本来防人に対する応援歌であり鎮魂歌である。これが失われている。本当に独立国家となるなら、防人を応援する国民の声がなければならない。来年4月28日は主権回復70周年という話が先程あったが、お祝いの日ではなく、主権を本当に回復しようとする日であるべきだが、そうしたイベントをどこもやっていない。70周年のイベントをやらないと真に独立する機会は失われてしまう。元谷代表には特別顧問になって頂いているが、この2つのイベントをやっていきたい。」とコメントをされました。

在日本ルーマニア商工会議所会頭の酒生文弥様は、「今は新聞やテレビなどの既存のメディアだけではなくインターネットもあるが、これまで点と線だった保守の考えを面で国民に伝えていくためにはどのようにすればよいか?」と質問され、葛城様は、「ネットはすごく良いツールだと思っていたが、このところネットの言論統制が厳しくなっている。どのようにして行けばよいか一緒に考えていきたい。」と答えられました。さらに山下様は、「独立を明示的に目指して運動するためには、一人一人ができることをやってほしい。そのためには『独立』という言葉を明示的に口に出して活動してほしい。」と答えられました。

「空の神兵」顕彰会会長の奥本康大様は、「今年6月に上梓した『正伝 出光佐三』について話したい。約10年前、『海賊と呼ばれた男』という題名で百田尚樹さんが小説を書いたが、出光OBとして本当の出光佐三を知っている人間としては、間違ったかたちで出光佐三を理解している人がたくさんいると感じていた。そのことがこの本を書くきっかけとなった。出光佐三は国士であり、真の愛国者であり、根っからの尊王家でもあった。出光佐三は会社を設立するときに、『人間尊重』、『大家族主義』という理念を掲げた。この考え方は、日本古来の八紘一宇に由来する。その日本の文化を取り入れた事業経営をやろうと明治44年に会社を立ち上げた。出光佐三の考え方は、国に貢献するということが第一義にあった。『七生報国』と言えば今は軍国主義と言われそうであるが、出光佐三はまさに国に7回死んでも国に尽くす気持ちで我々をも鍛えた。我々は入社して一番初めに教えられたのが、『人間の真に働く姿を顕現し、国家に示唆を与える。』という出光の経営理念である。出光佐三の精神を昭和天皇はよくご存じで、出光佐三が逝去した際には御製を詠まれた。このことからも、出光佐三の業績の偉大さを窺い知ることができると思う。出光佐三は戦前にも日本に貢献してきた。戦前は大陸に出て行き、海外の石油資本と競争しながら販路を拡大し、その中で品質を高めることに努力をして差別化を図った。そのことで日本の石油産業が発展していった。さらに出光佐三は、大陸における石油の供給体制はこうあるべきと軍部や政府に進言した。軍部からは煙たがられた存在だったが、やがて出光佐三の唱えていることは正しいと評価されて、戦時中南方のパレンバンで大量の石油を確保した際には、その石油の配給を出光一社に委ねてきた。3年8カ月にわたって日本が戦争を続けられたのは、出光佐三が石油の供給体制を構築したからである。戦後は日本の戦後復興で儲けようとして日本に入って来た石油メジャーを駆逐し、日本の商圏を守った。さらに、日本精神を守ったことも出光佐三の大きな功績だった。GHQによる日本解体戦略の中で、日本精神、皇国史観を守るために平泉澄東大教授に研究が継続できるよう研究の場を提供した。さらに関東軍参謀として戦後11年間シベリアに抑留された後、帰国して、あまりにも日本がおかしくなっているため日本を改革しようと立ち上がった草地貞吾さんを、出光佐三は16年間嘱託として採用して、自由な活動を後押しした。金沢には大東亜聖戦大碑が草地貞吾さんらによって建立されたが、田母神俊雄さんらがその事業を継承し、元谷代表に最高顧問になって頂いている。さらに、出光佐三らは下呂に回天顕彰碑も建立している。また、出光佐三は三島由紀夫の葬儀で弔辞を読んでいる。三島由紀夫とは一度も面識がなかったにもかかわらず、三島由紀夫の精神に感動して川端康成葬儀委員長に交渉して弔辞を読んだ。」と、出光佐三の功績について語られました。


産経新聞東京本社編集局社会部記者 大森貴弘様

産経新聞東京本社編集局社会部記者の大森貴弘様は、「インターネットで広まった『十八歳の回天特攻隊員の遺書』は大変感動的な内容であるが、実は戦後に創作されたもので、回天の搭乗員が書いたものではない。創作したのは元海軍予備士官で、学徒出陣で徴兵されて海軍に入り士官になった男性である。私はこの遺書を読んだ時に大変感動したが、どうやら創作らしいという話を聞いて、誰が何のために創作したのか調べた。この男性はすでに10年以上前に亡くなっているので本当のところを知ることはできないが、男性を知る何名かに取材をして、私なりの結論に達することができた。この男性は戦後故郷に帰り、海上自衛隊の幹部に頼まれて、ある戦争資料館の館長になった。ところがそこには展示するものが全くなかったので、全国を駆け回って主に特攻隊員の遺書や遺品を集めて4、000点以上を展示した。館長という立場だったので講演をする機会が多くあり、平成の初め頃からこの遺書の話をするようになった。なぜ回天の搭乗員のものではない遺書の話をするようになったのか。おそらく遺書の話は全くのでたらめでなく、集めた飛行機の特攻隊員の遺書の中には母親への愛情を吐露するようなものもあり、これを回天の特攻隊員の遺書ということにしてしまった。当時は飛行機の特攻は世間でもかなり認知されていてが、回天についてはほとんど知られていなかった。そこで、回天で亡くなった人にも目を向けてほしいという思いで創作という行為に手を染めてしまったのではないかと考えている。この男性は同期に回天に搭乗して亡くなった方もいたため、それなりの思いがあったのだろう。この講演の内容が、最近インターネット上で広がっている。それは、彼が講演の動画をYouTubeにアップしていたので、誰かが遺書を文章に起こしてネット上で流布したためである。この遺書は、少し戦争に詳しい人が読めば一見して嘘とわかる内容である。冒頭に『私はあと三時間で祖国のために散っていきます』とあるが、回天では三時間前に敵の位置がわかって攻撃できることはない。少し考えればおかしいとわかることがなぜか広まってしまった。この要因は、受け手が検証することなくそのまま受け取ってしまったからである。つまり、自分にとってきれいな話、受け入れやすい話を無批判に受け取ってしまったことが背景にあったのではないかと思う。今年はまもなく開戦80年となる年で、8月15日には戦後76年を迎えた。私は毎年終戦の取材をしているが、経験者が年々減り、今年は1名にしか話を聞けなかった。先の大戦は誰かの経験、体験で語ることができ、別の経験者からの指摘で誤りを修正することができたが、この創作遺書の問題は、その段階が終わってしまったことを意味している。あの戦争が誰かの知識や経験ではなく、歴史学として検証しつつ見ていかないと、第二、第三の創作遺書、誤った歴史が生まれかねない。今回はまだ特攻隊員の気持ちを推し量ったものだから良いものの、これが別の意図の誰かに作られて広まってしまったら恐ろしいと感じる。戦後76年が経ち、先の大戦で命を落とした方々への思いが我々に十分ではないのではないか。同じような問題が起こらないためには、先の大戦で命を落とした方々のことを私達が忘れず、常に考えることだと思いっている。」と、創作された回天特攻隊員の遺書の問題点を指摘されました。

諸橋茂一勝兵塾事務局長は、大森様に対して、「『靖國神社の遊就館』や『知覧特攻記念館』並びに『鹿屋特攻記念館』には、人の心を打つ本物の遺書等が多く展示されており、創作云々を問題にするよりも、本物の遺書等を一つでも多く産経新聞で取り上げて頂きたい。」とコメントをされました。


バイリンガル司会・歌手・声優 グレッグ・アーウィン様

バイリンガル司会・歌手・声優のグレッグ・アーウィン様は、「私は今年のアパグループ創業50周年のイベントの司会をさせて頂いた。日本に住んで38年になるアメリカ人で、声優や司会の他、歌手もしている。私は27年前に日本の童謡を英訳してからこれまで100以上の曲に英訳を付けてきた。日本の童謡は財産であり、素晴らしい歌が本当にたくさんある。日本人はもっと日本の童謡にも注目してもらいたい。私が英訳した曲の一つに『青い目の人形』がある。渋沢栄一とギューリック博士が日本とアメリカの人形を交換するという素晴らしい出来事があった。明後日、この話のお芝居が上演され、私はギューリック博士を演じる。」と、日本の童謡の素晴らしさについて語られました。


参議院議員 石井苗子様

参議院議員の石井苗子様は、「明後日新潟に行き、横田めぐみさんの同級生の方々にお会いしてくる。予算委員会では(当時は菅総理だったが)横田めぐみさんの卒業作文を読み、総理に『どう思われるか?』と質した。皆威勢のいいことは言うが、どうやっていけばいいのか、戦略を持っていない。日本は戦後76年間で茹で蛙のようになっている。人々が独立を渇望するのは自由がない時である。76年間のぬるま湯の中で、環境についてはよく言われているが、自由がないということはほとんど言われない。根底に怒りがなければアメリカに対して何も言えない。」と感想を述べられ、葛城様は「『めぐみへの誓い』には私も関わっているが、プロデューサーの松永さんが、『東日本大震災のときにあれだけの日本国民や世界の人々が被災者のために何かしたいと思ったのは映像があったからだと思う。』と話していた。一方、拉致には残念ながら映像がないため、拉致問題が盛り上がらない。そのため『めぐみへの誓い』が映画化されるときに北朝鮮の実態をかなり描き込んだ。その映像の力で心を動かして世論を動かしていかなければならない。」と補足されました。

最後に塾長は、「今日の勝兵塾も素晴らしいお話を伺った。次回も多くの方々にお集まりいただければ幸いである。」と挨拶して会を締め括りました。