69回目の終戦記念日を三日後にひかえた8月12日、天気は快晴。私は、山口県周南市大津島にある人間魚雷・回天訓練基地跡に向かった。
大東亜戦争の末期、「天を回(めぐ)らし、戦局を逆転させる」という願いを込めて、人間魚雷「回天」は誕生した。回天の水中での最高速力は、時速にして約56キロメートルであった。このスピードで敵のレーダーをかわした。また、航続距離は30ノット(約56km/h)で23キロメートル、10ノット(約19 km/h)で78キロメートルにも及んだ。当時の魚雷の爆薬重量は、一般的には0.3~0.5トン(米国魚雷0.3トン、九三式魚雷0.5トン)であったが、回天はこの約3倍以上の1.55トンの爆薬を搭載し、たった1基の体当たりで空母を瞬時に轟沈するほどの威力を持っていた。「回天」は、魚雷に人間が乗り込み、敵軍に打撃を与えるという作戦、海の特攻隊であったのである。戦局が悪化し、日本にとって残された道は「特攻」ただ一つであった。
私の旅のはじまりのきっかけは、母から回天の話を聞いたことである。特攻隊員は、悲惨で残酷な境遇にあったといわれ、回天は、一度搭乗すると外からボルトのようなものでハッチを固定され、搭乗員は外に出してもらえない非人間的な兵器だと言われてきている。私の祖父は、生前そのことについて、山口県の郷土史研究家の方々にたずねた。祖父は、そのことについて、それは事実ではなく意図的に歪曲されているのではないか、搭乗員が泣いても叫んでも外に出してもらえない回天は、非人間的な兵器だといわれているが、それは違うのではないかと、かなりしつこく聞いていたそうだが、返ってくる答えは、祖父が思っていたのとは違う答えだった。祖父は本当のこと、真実を知りたいと話していたと、母から聞かされたのだ。戦争を経験している祖父は、今の日本を憂いていた。このままではいけない。一刻もはやく正しい歴史を、みんなが知るべきであると思っていたのだ。祖父は、郷土の歴史を研究していて、子供たちにも話す機会が多くあり、真の歴史を学ばせ、正しい歴史認識を教えていきたいと思っていたそうだ。そして、戦争とはなんであったのか、あの敗北はなんであったのかということを、しっかりと考える時期が来ていると話していたそうだ。そんな時、一冊の本に出会ったのである。祖父の思い、本との出会いが、私に真実を知りたい、知るべきことがあるのではないかという思いに駆り立てた。
『特攻 最後の証言』で人間魚雷回天について証言された元特攻隊員の小灘利春海軍大尉のインタビューは、要約するとこのような内容だった。
「特攻隊員は悲惨で残酷な境遇にあったという話ばかりまかり通っています。私はそれを打ち消しています。世間は悪口(特攻隊=非人間的)の方が納得できるのか、なかなか耳を貸してくれません。回天関係の本を書く人も、歪曲して悪く書く人ばかりが多く、まともな証言は相手にしてもらえません。地元のTVさえも同様です。戦後、日本の良さがどんどん消えたように思います。例えば、自衛隊、警察官など、自身のためではなく、多くの人に尽くす職業が評価されにくくなっている。戦後は教育が誤っているような気がします。日本人は自分でものを考えなくなってしまったように思います。自分で考えて自分で行動するのではなく、人がやっていることに自分を合わせるという考えになってしまっているように思います。また、多くの人に尽くすのが尊いと考えず、自分さえ良ければと思っています。回天は非人道的どころか、人道的な兵器だと思っています。一人の身を捨てて、その代わりたくさんの人を助けるという本当の意味での人道的な兵器だと思うのです。回天に限らず特攻隊員は皆、日本人をこの地上に残したい、そのためには自分の命は投げ出してもよいと思っていました。そういう多くの人に尽くす人を評価し、敬わなかったら、誰が人に尽くすようになりますか。」(「特攻 最後の証言」制作委員会 『特攻 最後の証言』 アスペクト、2006年)
この時、小灘元海軍大尉は病を押して、回天の真実を伝えたい、その思いでインタビューに応じられたそうである。平成18年9月に鬼籍に入られた。生前お会いすることができなかったことを残念に思っている。
大津島で地元の方とお話しをして、少しずつではあるが、祖父が思っていたことが、真実であることが分かった。なぜ今まで事実と異なることが、まるで真実のように伝えられてきたのか・・・。
特攻隊・回天の搭乗員たちは、たったひとつの自分の大切な命を捨てることで、大切な祖国と愛する人々を守ろうとしたのであって、勲章や名誉のために「必死」の任務に就いたのではないということを、私は知ったのである。自分の命をかけてでも守ろうとしたものがあり、その献身がいまの日本をつくって、私たちが生きていることを忘れてはいけない。
大津島で育った、現在81歳のご婦人から、回天の搭乗員たちの本当の姿を聞かせていただいた。出撃の日に万歳!!万歳!!と島の人たちが見送ると、回天の搭乗員たちは、笑顔で別れを告げたという。また、搭乗員と島の人とのふれあいはなかったと聞くが、実際はあったということである。彼らは、自分たちに与えられたチョコレートや白米のおむすびを、子供たちにあげていたそうで、その婦人も、なつかしそうにその話をしながら、みなさん優しくて明るく楽しい人たちでしたと話し、私は幼かったので何も分からず楽しくおしゃべりしていたと話されたのである。そして、今も特攻隊への感謝を忘れず、毎日、回天記念館の近くを掃除していますと話された。
私は、はやる心をおさえ、蝉しぐれを聞きながら回天記念館に向かった。
回天記念館の前には、回天模型が置いてあった。回天記念館に入るとすぐに、「平和を未来へ」というメッセージが書かれていた。そして、この言葉に出会い足が止まってしまった。写真を撮ってもいいか受付の方にたずねた時、これはなんと読むかご存じですかと聞かれ、そして、その方は次のような話をしてくださった。回天記念館に来場された台湾の方が、その方に「秋」をなんと読むか知っていますかと聞かれ、その方が「秋(アキ)」と読まれたら、「あなた日本人として恥ずかしいですよ。これは秋(トキ)と読むのですよ。」と言われたそうだ。その方が、「台湾の方なのに、よくご存じですね。」と言われたら、台湾の方は、胸をはってこう言われたそうである。「私は日本人でした。そして今も日本人です。」日本統治下に生まれ、日本語教育を受けてきた方である。日本と台湾の繋がりは、他の国よりも、緊密な関係である。日本統治下であった台湾には、日本語が話せる年配の方が多くいらっしゃり、今でも日本語を話し、日本を愛し、日本を心配してくれているという話をよく聞く。日本にとって台湾とは、歴史を共有できる大切な国である。今もなお、このように日本を思い、日本人であると言って下さる台湾の方がたくさんいらっしゃるにも関わらず、戦後、日本は台湾との国交を断絶した。日本人であったことを誇りに思い、今も日本人であると言われた台湾の方に、私たち日本人は恥を知るべきだと教えられたような気がした。戦前の日本人と同じ思いを持つ台湾の人々、今もまだ日本人としての誇りを持っている人がいて、すぐ戦争であたかも悪いことをしたのは日本です、というように謝罪する日本の政治に苛立ちを感じている。そして、日本の歩んだ歴史的意義を知っていて、日本に好意を抱き期待している国々がたくさんある。反省と謝罪を繰り返すのではなく、正しい歴史認識で、私たち日本人は、一刻もはやく日本を取り戻すことをしなければならない。
「国家存亡の秋(とき)、じっとしておられないのです。」 (安部英雄少尉)
注:秋(とき)とは、「大切な時機」、「重大な時期」を意味している。
大義 ~七生報国~魂のメッセージ~
「我々はこれからの日本を背負わねばならぬ、
我々がやらねば誰がやるのだ。」 (水井淑夫大尉)
「晴れの日は、何日後、何年後に
来るか知れない。 しかし必ず来る。」 (本井文哉大尉)
「国を思ひ 死ぬに死なれぬ益(ます)良雄(らお)が
友々よびつつ 死してゆくらん」 (黒木博司少佐)
回天作戦による戦没者は1299人にのぼり、戦没搭乗員は106人、没時平均年齢は20.8歳である。私と同じ年代であり、あまりにも若すぎる死である。
遺書や遺稿を読むと、自然に背筋がまっすぐに伸び、特攻隊の真心が伝わってきて胸が熱くなってくる。 自分の命を捨てて、自分の命をかけて愛する人たち、愛する祖国を守ろうとし、祖国の行く末を思い、幸せな未来を夢見ていたであろう、その特攻隊の真心を忘れてはいけないと、私は思うのである。
しかし、現在の日本では、日本のために死んでいった人たち、戦没者たちを「犠牲者」として憐れみ、また遠ざけようとしているように思えてならない。
彼らの歴史を記憶し、国に捧げた死とはなんであったのか、彼らがどのように生き、そして散っていったのかということを記憶し、その意味を解釈しなければ、未来の日本を守ることができないし、未来の日本も見えてこないように思う。
敗戦直後、マッカーサー元帥は、「永久平和」「民主主義」という言葉で、勇猛果敢な日本人を弱くし、教育を欧米化に変え、日本国民の「愛国心」と「誇り」を捨てさせた。そして、「礼儀」「恩」「忠誠」「道徳」「躾」などといった、日本の美学となるべきものさえも、占領下では「軍国主義」とみなされた。「平和教育」という名目で、日本は、破壊された。隣国やさまざまな国から、絶えず罵倒され、日本人であることが、まるで恥であることのように思わされてきた。さらに、小学校や中学校の義務教育現場においても、自虐史観が蔓延している。修学旅行で、韓国の抗日記念館や南京大虐殺記念館を見学させたりして、中韓の歴史歪曲に手を貸して、子供たちに自虐史観を植え付けているのだ。
また、特攻は、世間に言われているような強制ではなく、志願制であったということが事実である。終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は1375人にも及んだ。そのほとんどが兵学校・機関学校出身の若者、学徒や学生出身の予備学生、20歳に満たない予科練出身者たちであった。年齢も17歳から多くても28歳、大多数は20歳前後の若者であった。1944年(昭和19年)6月ごろから搭乗員募集がはじまり、彼らは自分の命をかけて祖国を護ろうと全国から集まってきたのである。
その特攻隊がアメリカ軍に、恐怖の念を与えていたという事実がある。終戦後、マッカーサー司令部のサザーランド参謀長は、日本の軍使に「回天を積んだ潜水艦は太平洋にあと何隻残っているか」とまっ先にたずねたそうである。「10隻ほどいる」と聞くと、「それは大変だ。一刻も早く戦闘を停止してもらわねば」と顔色を変えたという。いつ攻撃してくるか分からない、近くにいるのかいないのかさえ分からない「海中の見えない脅威、回天」が恐れられていたことは事実であると考えられる。しかし、回天の戦果には、いまだ謎の部分が多い。米国海軍から正確な発表がなされていないことが、大きな理由であると思われる。一方で、日本の連合艦隊が発表した数字が実数と異なる可能性も否定はできない。
特攻隊がアメリカ軍に恐怖の念を与えていたということは間違いない。日本の国と人々を護るために、体当たり攻撃をしかける日本人の勇気に、アメリカは畏怖の念を抱いていて、心から恐れ、敬意を払っていた。
大東亜戦争は、日本人の戦争として、もちろんはじめから敗戦を予測した戦争ではなかった。困難ではあるが、勝利の可能性を、みんなが信じていた。勝利を信じて、国のため、国を思い、戦った。しかし、私たちは、先祖がいかに戦ったかを忘れ、ひたすら経済的な面の繁栄のみを追求してきたのではないだろうか。祖国が危機に陥った時、先祖が自らの命を賭けて戦ったように、戦うということ、この意志を持った上で、平和をもう一度考え直す必要があると、思うのである。
ここで改めて、大東亜戦争は過去の話ではなく、祖父が言っていたように、先祖の歴史を悪意ある非難から守らなければいけないと、私は強く感じたのである。私たちが教わってきた歴史はいったいなんだったのだろうか・・・。
日本のマスメディアの報道などによって、また、中国や韓国から一方的な歴史認識を押し付けられ、多くの日本人が、自虐史観に洗脳され、日本人としての自信と誇りを失ってきた。根拠なき非難には、毅然と反論すべきである。封印された真実を今こそ解き明かし、真の歴史を学び、日本人としての自信と誇りを取り戻さなければならない。
回天記念館を出て、私は深々と一礼した。言葉にならない感動と感謝で、心がいっぱいになり、涙が出てきた。実際に戦争に行かれた世代が、日本から消えようとしている。伝えるべき貴重な話も機会も、戦後69年の今、戦争に行かれた方たちは、平均寿命も超えている。いま、真実を聞くことをしなければ、永遠に聞くことができないことに、私は気づき、焦りを感じている。
もう一度、回天訓練基地に立った。回天訓練基地は当時のままだ。波の音を聴き、風の音を聞く。そして、特攻隊員たちを想う。特攻隊員たちの話し声が聞こえてくるように思えた。命の尊さを、人を思いやる心の大切さを教え、愛するこの国を、愛する人たちを護ろうとし、海に散った若者たち。あなたたちが護って下さり、命を捧げて下さったから、今の私たちがあるのです。平和があるのです。海に向かって大きく手を振った。「ありがとうございました。」
あなたたちが護って下さった日本。日本が誇れる国であることに気づくべき秋(とき)に来ているのです。誇れる祖国、日の出ずる国、日本。私たちの大切な日本のために。
今、日本を護るために、愛する国のため、
いまこそ立ち上がるその秋(とき)が来たのです。