二年前の高校一年の夏、福岡市の親善大使として派遣されたマレーシアの学校で、現地の先生に日本の国歌を歌うことを求められた。しかしながら、学生たちを前に私は国歌を歌うことができなかった。それは人前で歌うことが恥ずかしかったからではない。君が代の歌詞を完全には暗唱できなかったからだ。あの時の学生たちの唖然とした表情を忘れることは一生ないだろう。まさに、日本を知らぬまま日本人として生きてきたことに恥を覚えた瞬間だった。
平成七年生まれの私は小学生の頃から、学校生活を送る中で一度たりとも日の丸を見たことがなければ君が代を歌ったこともない。自分の友人のほとんどは未だに君が代を歌うことができないと言う。このような環境下に置かれた学生たちの多くは、必然的に日本人としてのアイデンティティーを確立できないまま、「自国の歴史や文化に精通した上で」という必須条件を抜かして「国際人」という謎の人種に憧れを抱くようになる。その結果、日本は東アジア共同体構想からうかがえる鳩山由紀夫元首相のように、自国を中軸に物事を考察することのできない国民で溢れるようになった。
我が国の戦後体制の顕著な特質のひとつとして、国家観の欠如が挙げられる。この国家観の欠如が、外交、安全保障のみならず、日本のすべての局面での隘路となっているように思われる。これまで、その欠如による弊害を記した書籍や論文は、現代社会に矛盾を覚える人々によって多数書かれてきたが、それらはあくまで結果や過程であり、「国家観」の定義と欠如の現状を曖昧なままに語られてきてはないだろうか。
恐らく保守派の大多数の人にとって、このような「国家観」という表現は慣れ親しんだ自然なもので、その定義と現状について具体的に言及するような動きはほとんどみられなかった。そこで、日本国民の国家観の現状を認識すべく、私は日本とアメリカで学生を対象に意識調査を実施した。
具体的には国家に関する重要な歴史などを踏まえた十項目の質問事項に答えてもらうというものだ。日本では、福岡市内にある四校のうち一三六人の高校生を対象に声をかけた結果、一〇〇人より有効回答を得た。そして、アメリカでは現地の友人の力を借りて、二十一人の大学生より有効回答を得ることができた。
東日本大震災により、日本人は自国の誇り高い精神性にようやく気が付いた。その後、尖閣・竹島問題を受けて、国民は国防意識を高めつつある。これら一連の流れは戦後の日本に希望の光を灯した。しかしながら、日本国民の欠落した国家観の現状はあまりにひどい。この調査は、戦後日本の蝕まれた教育の成れの果てを端的に示した。本稿では焦点を日本の若者に絞り、アメリカでのデータと比較することによって、その欠落した国家意識の現状を明らかにしていきたい。
皆さんは、日本がいつ、誰によって建国されたのかご存知だろうか。昨年の春、東京都で行われた慶應義塾大学講師の竹田恒泰先生の講演会において、私は大きな衝撃を受けた。なんと、我が国は現存する世界最古の国だというのだ。
この話を聴いたとき、素直に日本のことを凄いと誇りに思えたのだが、同時に、なぜそのような素晴らしい歴史を私は知らないのであろうかと疑問に感じた。我が国では中学・高校の教育課程において日本史の授業が用意されていて、中学では必須の科目となっている。ご承知の通り、日本史とは日本の歴史を学ぶ科目のことだ。
どこの国においても、歴史の授業では建国の歴史から丁寧に説明してゆくのが普通である。加えて、現代においても、戦前の我が国のように歴史が神代にまで遡ることすら珍しくない。しかしながら、現在、私が高校の授業で使用している日本史の教科書(山川出版)は、日本列島の成り立ちについては触れてはいるものの、建国の歴史に関する記述は一切ない。
日本政府は祝日に「建国記念の日」を設けているにもかかわらず、建国の歴史を省略した学校教育を行っていることが不思議に思えてならなかった。このような思いもあり、今般のアンケートにおける最初の質問は「日本が建国した年」と「日本を建国した人物」を尋ねる内容にした。
世界中どこの国に住んでいる人も、祖国がいつ、誰によって建国されたのかを詳らか語ることができる。たとえば、アメリカの教育を受けたにもかかわらずアメリカの独立戦争を知らず、初代大統領のジョージ・ワシントンを知らないアメリカ人などいるだろうか。同様に、フランス革命について語れないフランス人や毛沢東を知らない中国人などはいるはずがない。そう、自国の建国の経緯に無知であることは世界の非常識なのである。
だが、アンケートは衝撃的な事実を明らかにした。日本人はその社会通念を知らなかったのだ。アンケートの質問に回答するどころか、有効回答だった一〇〇人のうち、半数以上の学生が建国の歴史に関する最初の質問二つに未回答だったのである。「紀元前六六〇年に神武天皇が建国した」と答えることができたのは、未回答を含む一〇〇人中わずか二人で、九割以上が我が国の建国について無知であることがこの調査から分かった。また、五人の学生は建国した人物をマッカーサーと回答し、その他、推古天皇や卑弥呼などが挙げられた。
対してアメリカでの結果はどうだろうか。建国者には多少のばらつきがあるが、総括すると全てのアメリカ人は「Founding Fathers(Washington, Jefferson, Patrick Henry, Hamilton, Monroe, Madison, etc.) によって、一七七六年七月四日に建国された」と回答していて、未回答者は一人もいなかった。
アジア史を専門とするイタリアの考古学者Dr. Daniele Petrellaにこの調査結果を見てもらったところ、彼は次のように述べた。「祖国の建国に纏わる歴史を知らないことは実に非常識である。ましてや、日本史とは、我々外国人から見ても崇敬の念に値する他国に類をみない素晴らしい歴史だ。私が考古学の世界に入ったきっかけは日本の歴史にあった。その素晴らしい歴史のおかげで考古学という分野に興味をもつようになったのだが、この調査結果は日本人を疑いたくなる結果でもある」と。複雑な歴史をもつイタリアの学者が日本の現状を異常だと示唆しているのだから、世界からみると甚だ非常識な結果に違いない。
先にも述べたが、日本人は「建国者」や、「建国の歴史」といったものに対しての意識が非常に希薄である。アメリカでの調査が示す結果がそうであるように、自国の歴史を学ぶ上で「建国」という概念は、歴史とは切っても切り離せない関係であるはずだ。建国者とはその国にとって偉大な功績を残し、全ての国民から敬愛されるべき人物である。もちろんこれはアメリカだけでの話ではなく、世界を通じてそうである。
たとえばお隣の中国では、その象徴たる天安門広場に大きな毛沢東の肖像画が飾られていて、また日の出と同時に中国旗が掲揚される。早朝から毛沢東を拝むために大勢の人民が広場に集まる光景があり、私もそれを実際に見たことがある。本来、国民にとって建国者とはそれほど尊い存在である。
ところで、九割以上もの学生が我が国の建国の歴史について無知であったことには確かに仰天したが、それ以上に一驚を喫したことがある。それは、日本の建国者をマッカーサーと答えている学生がいたことだ。その他の「推古天皇」や「卑弥呼」という回答に至った経緯に関してはまだ納得がいく。なぜなら、今回の調査対象であった学生が使用している山川出版の日本史の教科書において、最初に記載されている、クニを治めた人物の名が「卑弥呼」であり、最初に紹介される天皇が「推古天皇」であるからだ。しかも、その天皇が第三十三代であることは一言も記述がないのである。したがって、学生たちが日本の建国者を「卑弥呼」や「推古天皇」だと考えるのは無理もない。
しかし、ダグラス・マッカーサーが建国者という回答は理解に苦しむ。彼は先の大戦の終結後に日本を占領したGHQの最高司令官ではないか。今般のアンケートにより、戦後日本の歴史教育はマッカーサーの影響を強く受けていることが判明した。彼を我が国の建国者として認識している若者が五人もいたことには頷ける部分もある半面、愕然とした。
私は、五人の学生がこのような発想に至った原因を究明するために、彼らに日本史を教えていた先生から直接話を伺うことにした。その先生に同様の質問をすると、返ってきた答えは「日本国憲法の制定が我が国の建国だ」というものであった。つまり、先生曰く、主権が天皇から国民に移ったことにより、それまでの歴史は断絶し、新たな日本の歴史が始まった、というわけだ。原因はここにあった。
ちなみに、戦後に関して教科書には「GHQは、当初、日本占領の目的は、民主化と非軍事化にあるとして、日本国憲法の制定をはじめとする一連の民主化政策を推し進めた」と記載している。恐らく五人の学生たちは当初から日本国憲法制定をもって我が国の建国とみなす認識をもっていて、先述の教科書に記載されている内容からGHQの最高司令官であるマッカーサーが建国者であるという解釈に至ったのだろう。
しかしながら、日本の歴史教科書は戦後体制の産物であり、その背景には、GHQの実行した「ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」によって植えつけられた敗戦コンプレックスがある。二十世紀を代表する歴史学者のアーノルド・J・トインビーは「民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」という言葉を遺している。戦後の日本では、マッカーサー率いるGHQによって神話たる『古事記』を学ぶことが禁止された。我が国の教科書に、建国者である初代神武天皇の名や建国の歴史が書かれていないのは、GHQが我々から歴史観を取り去ることで日本という民族の精神を弱体化させ、アメリカに追従させることを意図していたのではないだろうか。
トインビーが遺した言葉と日本の現状を照らし合わせてみてほしい。あれから68年が経過した今、この調査は日本人の失ったアイデンティティーを端的に示している。
さて、続いて二つ目の質問に移りたい。ここでは「あなたにとって天皇とはどのような存在か」という内容を尋ねた。我が国は初代神武天皇の即位から途絶えることなく、二千六百七十年以上も続く長い歴史を誇る。このような日本の歴史の中枢を担ってきた天皇の存在を現代の若者たちはどのように認識しているのだろうか。
最多となった回答が「象徴」であったのは言うまでもない。戦後の教育を受けてきた人なら理屈や道理は推論できるはずだ。それはさておき、ここでは次のような結果がみられた。「日本の代表として他国と親しくする人」「日本の歴史を象徴する人物」「尊く・美しく・日本人として誇らしい存在」「平成を支えている偉大な人物」など、天皇陛下への尊敬の念が伝わる回答が多く、学生たちは陛下に好印象を抱いていることがうかがえた。これはもちろん、今上天皇を始めとする歴代天皇と皇族方が日々、国家・国民のため誠心誠意お務めになった結果であろう。
一方で、残念ながら天皇に否定的な印象をもつ若者がいたことも事実だ。その類の回答をみたとき、私はとても驚いた。寄せられたコメントをそのまま書き記すことは真に畏れ多いのだが、正直に結論から述べさせていただく。天皇の存在について「税金を喰い潰している奴」「装飾」「囚人」など、その他ここには記載できぬような回答が多数寄せられた。ちなみに、中立的な「象徴」と答えた学生は五〇人で、肯定的回答者と否定的回答者の比率は、なんと二十五人ずつの同等であった。
そもそも天皇とはなにか。端的に言えば「祭り主」である。天皇は古来、一貫して「祭り主」であった。八世紀初頭に完成した養老律令のなかには、すでにこの趣旨が明示されている。具体的な祭り主の仕事とは、国の平和と民の安心を祈願することで、天皇は祭祀において「国平らかなれ、民安かれ」と祈願する。
日本が長期にわたって国家を保ちつづけてきたのには、我が国の君主たる天皇が、いつの時代も国民を愛し、国の平和と民の安心を祈る存在である一方で、国民もまた天皇の統治する国を支えることを当然と考えていたからではないか。それはGHQの占領下に置かれた戦後も変わらない。
戦後に成立した日本国憲法第一条は、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく」と記し、「日本国民の総意に基」き天皇の地位があることを規定している。これは有史以来の事実であり、我々日本人は主体的かつ自由な意思の下に天皇を戴いている。昭和天皇が仰せられたように、天皇と国民の紐帯は君臣の信頼と敬愛により結ばれていて、それは世界でも類の無い君臣の関係である。我が国はまさに万邦無比の国柄なのだ。
先のアンケートにおいて、日本は「紀元前六六〇年に神武天皇が建国した」と答えることができた、二人の学生のうち一人に国家観について話を聞いてみた。ここからは対談形式で書き記す。
―最近の日本を見ていると、日本人としての国家観をもっている若者が少ないように感じます。それには、学校の歴史教育において最も重要といえる建国の歴史を教育していないことが関係していると思います。今般のアンケートにおいても、その現状が端的に示されました。なぜ、学校で教育されていない「国家の成り立ち」を知っていたのですか?
学生 私が「国家の成り立ち」というものについて意識するようになった理由は、「家柄」だと思います。私は田舎の旧家の出で、古い文献でも名前がとりあげられることがあります。そんな家柄のおかげか、伝統を重んじた生活を送っており、受け継ぐべきものはしっかりと受け継がれています。また、曽祖父は戦時中、皇族の方々をお護りする部隊である「近衛師団」に所属していたと聞きます。その血を引く祖父から、幼少期に日本の建国の歴史についての教育を受けました。
―そのような教育を受けた上で、日本のことをどのように考えていますか?
学生 お寺にも参り、神社にも参り、そしてクリスマスまでもお祝いする日本人の文化について疑問に感じていた私は、祖父にその理由について尋ねたことがありました。その幼い頃に教えてもらった話で印象的だったものが、今でも心の中に残っています。その時、祖父はこう言いました。「日本にはたくさんの神様がいらっしゃる。だから、優しく、他の世界の神様も受け入れていらっしゃるのだ」と。この言葉を今となって振り返ってみると、そういった幼少期に聞いた小さな神話からも日本の人々の協調性や精神性がうかがえて、いまでも日本を誇りに思うことができています。
―仰る通り、日本には国際的にも高く評価される素晴らしい精神が古来続いています。しかし、いま同世代の友人たちを見ていると、そのような精神を知らず、また日本に誇りを持っている若者があまりいないように感じられます。その原因はなんだと思いますか?
学生 教えてくれる人がいないからだと思います。私自身、家柄のおかげで、そのような重要な歴史を知っていたと思うし、今の日常を客観的に見ると、そういうことを知る機会がゼロに近いように感じます。私は受験を経験しましたが、受験のための日本史の勉強は「誰が何をした」という認識しか無く、歴史を学ぶことの本質がみえていないような気がしてなりません。「誰が何をした」ということを重視するよりも、その背景には何があったのか、当時の日本人がどのような思いでその偉業をなしたのか、など、その精神を学ぶことで、初代神武天皇以来、どれだけ多くの先人たちがこの国のために身を投じてきたかを知ることができる。それを知れば自然と国家観が身に付くし、日本を誇りに思えるようになるはずです。やはり古事記は最古の歴史書でもあるのですから、「桃太郎、金太郎、そして古事記」となるくらい、国民が自国の神話になじむ、そういうことが重要だと思います。
―素晴らしいですね。国家観という言葉を仰りましたが、国家観とはなんでしょう。
学生 具体的には考えたことがありませんでした(笑)。海外を経験したことがない自分にとって、自分が知っている国家とは日本だけです。その日本を築いたのは、先人たちであり、またそこには大変な苦労や壁があったのだと祖父から学び育ってきたので、自分は周りの高校生よりはこの国を誇りに思うことができていると自負しています。ここから考えると、国家観とは、自分たちの生まれ育った国には先人たちの苦労があることを認識し、それを有り難く思う気持ち。そして、先人たちがそうであったように自分自身も子孫のために、国家繁栄のために熱い思いを持って生きる、そういうことではないでしょうか。
―海外に留学してから日本の素晴らしさに気が付いたという声を同世代の間でよく聞きますが、その現状についてはどのように感じますか。
学生 私は海外経験がありませんが、帰国子女の友人たちから話を聞くと「日本人は一歩外に出ることで、日本の良さに気が付く」といいます。しかし日本は、こんなにも素晴らしい文化や精神がある国なのだから、一歩外に出なくとも、当たり前に祖国を誇りに思える国になってほしいと痛切に感じます。
ところで、国家観の欠如とは、世界でも日本だけにみられる特異な現象である。私は今まで三十回近く海外へ渡り、モンゴルやモルディブ、マレーシアを始め、様々な国で実際に学校教育を受けてきた。中でも忘れられない光景となった一つに、小学三年生のときに留学したアメリカで、星条旗を前に国家に忠誠を誓う幼い子供たちの姿があった。なんと、アメリカでは幼児期から国家観を養うための教育が行われていたのだ。アメリカの公立小中学校や幼稚園では、毎朝、生徒がアメリカの国旗である星条旗に向かって右手を左胸にあて、「忠誠の誓い」(the Pledge of Allegiance)という文言を唱える。下記がアメリカで実際に行われている「忠誠の誓い」だ。
I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.(私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います)
この星条旗への「忠誠の誓い」とは、アメリカ合衆国への忠誠心の宣誓を意味する。これは、社会主義者の作家フランシス・ベラミーが作った誓いの言葉が大本となっていて、その後、ベンジャミン・ハリソン大統領の発案によってコロンブス・デーの一八九二年十月十二日より公立学校で暗唱されるようになった。
「愛国心」という言葉にアレルギーのある日本人からみると、このような教育に抵抗を覚える人もいるだろう。だが、実は世界中どこの国でも何かしらの愛国教育を行っている。忠誠の誓いはしばしば合衆国の公式行事で暗唱されていて、アメリカ合衆国議会の会期もまた、忠誠の誓いで開始される。それほどアメリカの国民は、愛国心を当たり前のこととして受け止めているのだ。
このアンケートを行った際に、アメリカの学生たちに日本のことを好きかと尋ねたところ、全員が口をそろえて"yes"と答えた。その理由は「日本はアメリカの同盟国だから」「日本の歴史や文化、宗教が好き」「日本は勤勉な国民から成る美しい国だ」など、感動的なコメントが多数寄せられ、強く心に響いた。
中でも印象的なものに"There is no reason not to like Japan"というメッセージがある。「日本を嫌いになる理由なんてない」、まさにその通りだと思った。日本人の中には、それを実感していない人もいるかもしれないが、日本は国際的に高く評価されている。そこには、無意識にも他人を思いやった行動をとることができる日本人の精神が大きく関係しているのだろう。一方で、我々日本人はその素晴らしさを見失っている現状がある。だが、歪んだ国家観を有する国民に本当の意味で国家を守ることはできるのだろうか。
昨年、私はスイスのジュネーブにある国連欧州本部を表敬訪問し、軍縮会議を傍聴させていただいた。そこで、核保有国であるパキスタン政府と戦争による唯一の被爆国である日本政府が、核兵器禁止条約をめぐり議論を戦わせる姿を見て、国家観の必要性を痛切に感じた。というのも、外交には相手がいて、勝負は常に主張と妥協の連続にならざるを得ない。よって、健全な国家観と国際的な視野を兼ね備え、自国の国益を高く堅持しつつも、相手国との共通の利益を模索し続ける姿勢こそが重要となる。そこでもし、正しい国家観をもたない人間が外交の立場に立ったらどうなるであろうか。極論ではあるが、相手国の利益ばかりを受け入れることに繋がりかねない。そのような外交が展開されるならば、日本国家は確実に衰退する。つまり、国家観や愛国心をもたない国民が増えることは日本の危機なのだ。
すでに日本は、国家観の欠如が、外交や安全保障のみならず、多くの問題を招いているように思う。それらの問題を一刻も早く解決するためにも、我が国は当たり前に国家を愛すことのできる国にならなければならない。先ほどの日本の学生のように、国家を思う若者が増えれば、我が国は一層輝き渡ると私は信じている。多岐にわたる問題が溢れかえった今こそ、先人たちが築き上げてきた日本の誇りを呼び覚ますべき時ではないだろうか。
(終)
※本論文は、『正論』5月号(2013年度)にて発表済です