I.「歴史問題」に関する危機的状況

現在の日本を巡る、もっとも憂えるべき状況のひとつは、歴史問題が一部の国家にとって政治的手段であり日本に対する外交カードとして利用されているということである。それは歴史についての学問的真理の探究とはまったく次元の違う話であり、さらに日本以外の国にとってこうした状況を変えていこうという誘因はほとんどないという現実がある。
日本の固有の領土領海に対する侵犯や実効支配、国家間で締結した条約の内容を無視した行動、第三国において日本の名誉を貶めるための理解不能な塑像を設置すること、スポーツ大会などでの礼儀を無視した行動、「侵略の定義は明確ではない」という学問的にもしごく全うなことを政治家が口にしただけで非難されること、戦没者追悼式での首相式辞において特定の言葉に言及しないということに対する非難など、独立国家間では考えられないような異常な状況に陥っている。それも、一部の民間人や組織だけでなく、公的な責任をもつ立場にある個人や組織も行っているのである。それらの多くは、歴史問題を手段あるいは根拠としてなされ、歴史という概念に対する根本的な認識の相違もあり、危機に満ちた状況である。歴史あるいは歴史学は、過去の事実を確認し真摯に真理を探究するものと、日本人の多くは考えているであろう。しかし、歴史とは為政者によって都合よく書き直され、政治的手段として用いられるものと考える隣国が存在することを認識すべきである。学問的な良心、あるいはジャーナリストとしての良心から、異なる歴史観を訴える人も存在するが、その発信力は弱く、マスコミ等でも報じられることは少ない。
近隣諸国にとって、日本がどのような状況にあるのが望ましいかといえば、軍事的・政治的な力は弱く、技術やカネは要求に応じて唯々諾々と出すというものであろう。まさに日本の「国体の弱体化」と「国民性の沮喪」が、近隣諸国にとって最良の状況であるが、日本国民の潜在的な力から常識的に考えれば、そのような状況を作り出すことは本来ならばきわめて困難なはずである。しかしそれを作り出す有力でかつ安価な手段が存在する。それがまさに歴史問題を外交カードとして使うことである。 
本稿では、政治的手段として利用されている歴史問題の形態的特質、その根底にある歴史観の内容的特質、および外交カードとしての歴史問題の国際政治的構造を考察する。そして、世界史の流れのなかで日本人はどのように行動したかを振り返り、それに基づいて、日本人がどう対処すべきかを考える。

II.政治的手段としての歴史問題の特質と構造

II-1 歴史問題の形態的特質
外交カードとしての歴史問題の形態的特質は、第一に、他の多くの政策手段と異なり、費用がほとんどかからないということである。ロビー活動費や宣伝費などもあるであろうが、他の政治的手段とくらべるときわめて安価であるといえる。いわゆる、だめもとで、何か効果があれば儲けものということである。第二は、国内における利害対立がないということである。たとえば金利政策であれば貸し手と借り手では利害が異なり、規制緩和や強化では既得権益者と新規参入者では利害が異なる。しかし歴史問題で日本を攻撃する場合にはそうした自国民相互の利害の対立はなく、したがって為政者に対する批判もない。それと関係して第三に、自国政府に対する国内のさまざまな不満から国民の目を逸らすことができる。そしてこうした外交カードは、どんなに無理難題をいい、常軌を逸した非礼な態度をとっても、強く反発される恐れのなく、逆に国内にさまざまな動揺が起こる国に向けられる。こうした特質から、歴史問題を外交カードとして使う国は、それを自ら収める誘因はまったくない。ひとつの要求が通ったとしても、新たな問題を見つけ出し、新たな要求を出すだけである。その問題が事実かどうかには関係がなく、どのような効果があるか、すなわち日本がどのように反応するかが重要なのである。

II-2 向けられる側にとっての歴史問題
向けられる方にとっては、どのような特質があるであろうか。領土、経済的損失に留まらず、民族の誇りと尊厳、名誉そして価値観の問題である。それも、現在の国民だけでなく、過去の世代から将来の世代にまで続く問題ということである。
価値観に関係する事柄のなかでも、とくに他国の国内における宗教行為に介入することは近代の独立国家間ではあり得ない。死者の弔い方については、まさにそれぞれの文化、価値観、宗教の違いであり、異なるのは当然である。他国の文化に違和感や不快感を覚えるのは勝手としても、それを政治問題化し内政干渉することに対しては毅然とした態度をとるべきである。まして、1972年の日中共同声明における「内政に対する相互不干渉~に合意する」に明白に違反するものである。国内でさまざまな意見があり、議論があってもしかるべきではあるが、国民性の沮喪を意図した他国による外交戦略とさせてはならない。
また、いわゆる「慰安婦」についても尊厳と名誉にかかわる問題である。国家による強制の有無が問題の本質であるのに、論点が意図的にすり替えられ、さらに当事者国以外の国にまで巻き込まれている。日本にはかつて従軍看護婦や従軍報道員はいたが、そもそも「従軍慰安婦」などは歴史的に存在しない。戦後になっての、特定の人間による意図的な造語が、あたかも実際に存在したかのような印象を多くの人々に与えている。しかも強制連行の話が明らかに虚偽であったことが判明したにもかかわらず、工場などで勤労奉仕を行った女子挺身隊と意図的に混同されるなど、虚偽が拡散されている。こうした悪質な捏造には毅然と対応すべきである。

II-3 基礎となる歴史観の内容的特質
外交カードとして使われている歴史問題の基になる歴史観の内容的な特質は何であろうか。それは過去数百年にわたる世界史的な流れという観点が欠如していることである。近隣諸国による日本に対する非難の根底には、現在の国際社会が、戦前から基本的に変わっていないという思い込みがあるといえる。すなわち、制度的な人種差別はなく、非白人の独立国が当たり前のように存在している社会であったという認識である。そして現在の常識で過去を裁こうとする。
過去数百年にわたる世界史の流れの中でそれぞれの民族の行動を理解する必要がある。コロンブスの新大陸「発見」以来の400年間は、白人が有色人種の土地を植民地化してきた歴史であったが、それが現在のような制度的人種差別はなくなり、有色人種の独立国が多数存在する状況になったという、大きな世界史的流れを無視し、日本とその隣国との関係の一部を取り上げ、それにさまざまな虚偽を取り混ぜ、論点をずらし、実証的根拠のない数字を並べ立て執拗に日本を攻撃しているということである。

II-4 歴史問題の外的構造
ではこうした外交カードが日本に向けられていることの、国際政治上の外的な基本構造はどのように考えたらよいか。歴史問題を手段として日本人から気概と誇りそして軍事力を奪うことは、程度の差はあれ戦後の冷戦期を通じてアメリカとソ連の利害が一致した稀有な例であった。アメリカは、原爆投下を始めとする都市無差別爆撃などの行為を正当化し、日本人の復讐心を押さえることができる。現時点における日米同盟の重要性を否定するものではないが、歴史観の問題は別である。ソ連にとっても終戦間際の一方的な宣戦と攻撃、その後の領土の占領継続と捕虜の扱いなどを正当化することができる。そうした意味で、あらゆる面で対立していた東西両陣営の利害がこの点においては一致したのである。現在も、強い反米思想をもつ人々であっても、先の戦争を日本政府の正式な呼称である「大東亜戦争」と呼ぶことを意図的に避け、アメリカを中心とした進駐軍の指導に忠実に、世界史的には別の戦争を指す「太平洋戦争」という言葉をいまだに用いていることは、こうした状況を象徴的に表している。
シナ、韓国、北朝鮮といった歴史問題を外交カードとして利用している国々はもちろんのこと、戦勝国であるアメリカ、ロシア、イギリス、フランスといった国々だけでなく、同じ敗戦国であるドイツやイタリアにとっても、消極的な意味も含めて、程度の差はあれ、この状況を変えようとする誘因はほとんどないといってよい。これは、日本を巡る主要国にとって、日本が歴史問題で一部の近隣諸国から攻撃されている状況が、ゲーム理論でいうナッシュ均衡の状態になっていることを意味している。すなわち、日本以外のどの国にとっても、積極的にそれを利用しようという誘因はあっても、自らそれを変えていこうという誘因はない。どの国についても、過去を言い出せばきりがないが、日本が外交カードとしての歴史問題で特定の国から叩かれている間は、とりあえずそうした心配はない。日本以外はみなそう思っているであろう。それが国際政治の冷徹な現実である。

III.世界史の中での日本の役割

III-1 白人による「植民地化」の歴史
外交カードの根底にある歴史観の内容的特質において欠如していた、世界史的な流れの観点とはいかなるものであろうか。大航海時代以降は、白人が近代科学に基づく経済力と武力とによって有色人種の土地を支配し、搾取してきたということである。人種的偏見と宗教観によって、おそらく何の良心の呵責もなく進められたであろう。戦前の国際社会には、個人的な偏見などという程度のものではなく、制度的な人種差別が厳然として存在していた。たとえばアメリカ大統領ジャクソンは1830年代に議会で先住民である「インディアン」について「白人と共存しえない。野蛮で劣等民族のインディアンはすべて滅ぼされるべきである」(藤原正彦『日本人の誇り』)と演説したという。すなわち一国の政策の基本方針として、差別を通り越した異民族の殲滅が堂々と掲げられていた時代だったのである。
有色人種の住む地域に対する白人による「植民地化」は二つに大別される。第一は、先住民が白人と共存し得ない民族として殲滅され、少数の例外的な生き残りはあっても、あたかももとから無人の地であったかのように白人国家が建設される場合である。北米大陸や豪州がそうである。第二は、先住民が労働力の提供者として過酷な条件で働かされ、資源を収奪される場合である。経済構造もモノカルチャー、すなわち支配国に必要なものだけの生産に特化した構造に変えられる。政治的には、非白人同士の対立をうまく利用し、分割して統治する場合が多い。ほとんどの非白人は最低限の生活であり、もちろん教育も満足に受けられない。これらの植民地化とは別に、白人の民族間での「合邦」という国家形態がある。たとえばオーストリア・ハンガリー帝国である。日本と台湾および朝鮮半島との歴史は、上述した植民地化と明らかに異なる、合邦であるといえる。インフラを整備し、教育にも力を入れて、産業を興すことは、欧米諸国による植民地化ではあり得なかったことである。ところが、この合邦と植民地化が混同されている。
人口も多く資源も豊富であった19世紀中葉のアジアは、ほとんどの地域で第二の形の植民地化がなされていた。現地人の反発は徹底的に弾圧される。こうした状況で起こったのがアヘン戦争である。歴史問題を外交カードとして利用する国の歴史認識は、世界がこのような状態にあったという観点が、意図的からか欠如している。

III-2 日本人の危機感と行動
そうした状況に対する危機感と独立を維持する意思を当時の日本人は切実にもっていたといえる。福澤諭吉はそうした状況について「自国の富強なる勢いを以って貧弱な国へ無理を加へんとするは、所謂力士が腕の力を以って病人の腕を握り折るに異ならず、国の権義に於いて許すべからざることなり」(『学問のすゝめ 三編』)と巧みな比喩を用いながらも、日本の取るべき確固たる指針を述べている。そしてその課題に対する答えとしての、当時の日本における国家意思の基本は富国強兵・殖産興業であった。
しかし殖産興業に必要な科学技術は、白人以外には修得できないというのがその当時の常識であった。ただし日本人は違っていた。「貧富強弱の有様は天然の約束に非ず、人の勉と不勉とに由て移り変わるべきものにて・・・我日本国人も今より学問に志し、気力をたしかにして先ず一身の独立を謀り、随て一国の富強を致すことあらば、何ぞ西洋人の力を恐るるに足らん。道理あるものはこれに交り、道理なきものはこれを打払わんのみ。一身独立して一国独立するとはこの事なり」(『学問のすゝめ 三編』)。ここに近代日本の行動原理が凝縮して述べられている。そして幕末から維新にかけての騒乱の中で、特筆すべきは、幕府側も倒幕側も、外国の勢力に依存しなかったことである。内紛に付け込んでの植民地化は、列強の常套手段であったが、当時の日本人は独立を全うすることの重要性を十分に認識していたのである。
そうした意識の延長上で行われた1904~05年の日露戦争の世界史的意義は、白人が有色人種を一方的に搾取支配してきたコロンブス以来の歴史の方向を変える転換点となったことである。

III-3 人種差別、ブロック経済化、共産主義
しかしながら制度的な人種差別は続き、1919年1月より開催された第一次世界大戦後の講和会議において日本より、国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することを提案したが、賛成国の方が多かったにもかかわらず、アメリカ大統領ウィルソンは、全会一致で決めるべきだとして、この案を潰したのである。その後1924年にアメリカでは日本人移民を排斥する「絶対的排日移民法」が成立している。
また1929年にアメリカでは1000品目以上の輸入財に最高で800%を超える関税を課すホーリィ=スムート法が議会を通過し、翌1930年に成立した。他方、1932年にはオタワ会議で、イギリスは植民地との間では関税をほとんどなくすが、域外に対しては高率の関税をかけることなどを決定する。これは自由貿易体制の崩壊とブロック経済化を決定的にしたとされるものである。
このように、日本が窮乏化し「自存自衛のため武力を以って包囲陣を脱出する」にいたったのは、英米をはじめとする列強がブロック経済化を進めて資源の囲い込みに入ったことが大きな要因であった。それについては戦後の1951年5月3日アメリカ上院軍事外交合同委員会においてマッカーサーがつぎのように証言している。「日本は絹産業以外には、固有の産業はほとんど何も無いのです。・・綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い・・もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであろうことを彼らは恐れていました。従って彼ら(日本人)が戦争に突入した目的は、主として自衛のために余儀なくされたことである」(渡部昇一(『日本の歴史』第6巻)。
また、独立を全うするための日本人の行動理由のひとつが、共産主義の脅威に対する防衛である。共産主義は単に一国内における経済体制の問題ではなく、国家ならびに皇室の存在を否定するものであり、当時の状況としては実質的にソ連の支配下に入ることであった。それは日本の独立を脅かすきわめて大きな要素であった。
こうした多くの犠牲を伴った日本人の努力がなければ、世界はいまだに白人による非白人の奴隷的植民地支配が続いていたであろう。

IV.必要な基本情報

何かが外交カードとして成立するのは、それが効果をもつからである。効果をもつか否かは、基本的に相手国の反応による。相手がまったく応じなければ外交カードとしては意味がない。韓国による、シナに対する朝鮮戦争に関する責任追及も、それが一蹴されたため外交カードにはならなかった。
外交カードとしての歴史問題に対処するには、日本人一人ひとりが過去数百年以上にわたる世界史的な視野をもった歴史観が求められる。そのためには教育内容も変えていく必要がある。少なくとも以下の事柄は義務教育段階ですべての子どもたちに教えておくべきである。
前述した、1919年の第一次世界大戦後の講和会議において、国際連盟規約中に人種平等主義を挿入することを日本が提案したが、否決されたこと。
イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、イタリア、日本といった主要国が第二次世界大戦以前にもっていた植民地の大きさと人口。
1943年に東京で開催された大東亜会議とそこで発表された「・・大東亜各国は万邦との交誼を篤うし人種差別を撤廃し・・」を含む大東亜宣言の内容。
1945年、日本は降伏したが、ポツダム宣言を受諾したのであるから、無条件降伏ではあり得ないこと。なぜならポツダム宣言には「条件」が明示されているからである。その条件の中に、日本国軍隊の無条件降伏があるが、その国が無条件降伏するのと、その国の軍隊が無条件降伏するのとではまったく意味が異なる。
憲法制定は国家主権の発動であるが、国家主権がない占領下で日本国憲法が成立し、また東京裁判が行われたこと。
前述した1951年のマッカーサー証言。東京裁判は当時の既存の国際法に基づくものでなく、連合軍総司令部の東京裁判要綱によるが、その根拠を総司令官であったマッカーサー自ら否定したこと。
1953年、全会一致の国会決議により、またサンフランシスコ講和条約第十一条の条項に基づき、日本は関連国に事前の了解をとり、「A級戦犯」はもはや存在しないこと。
日韓基本条約の内容、とくに「・・・請求権に関する問題が・・完全かつ最終的に解決された・・」こと、ならびに前述した日中共同声明の内容。
これらはどのような思想をもつ人でも、事実として認めると思われる。こうしたことを教育としてまず若年世代に伝え、それを基に歴史観を形成していくべきであろう。

V. 毅然として発信を

日本にとって現在は、歴史が歴史で終わらないきわめて不幸な時代である。本稿でこれまで考察したように、歴史問題は一部の国にとってきわめて安価で有効な外交カードとなっており、それ以外の諸国にとっても現状はある種の均衡状態である。そのため日本人が黙していては、どんなに妥協しても、この問題がエスカレートすることはあっても、収束し解決することはあり得ない。当面の混乱や短期的な経済的損失を考慮した政治的配慮が、さらに多くの混乱や経済的損失をもたらすだけでなく、父祖の尊厳と子孫の誇りをも奪ってきたことを銘記すべきである。歴史問題を外交カードとして用いる国は、ひとつ譲歩すればひとつ要求をエスカレートさせてくる。そのことは、現在までのこの問題の経緯を振り返れば明らかである。歴史をこちらから政治問題にする必要はないが、政治問題にされたのであれば、反論すべきことは毅然と反論すべきである。この場合、沈黙は美徳ではなく、和の精神は通用しない。同時に、日本の文化や生き方を発信していくことで、理解者を増やしていくことが求められる。
父祖たちの尊厳を守り、子孫へ誇りを伝えていくためにも、我々の歴史観を毅然として発信し続けなければならない。