遺骨収集を始めたきっかけ

 私は大東亜戦争で戦死された日本軍将兵の方々の戦没者のご遺骨を9年間お迎えし続けてきた。そして今の日本にとって一番大切なことは、あの大東亜戦争を戦った全ての日本軍将兵の方々に感謝の気持ちを伝えることだと思った。
  この論文では、今までの遺骨収集の現場の話を通じて見てきた実際のことと日本軍将兵の方々への思いを話して行きたいと思う。

  大東亜戦争で戦死された日本軍将兵の数は約240万人と言われていて、その内の半分に当たる約115万人の方々が未だ世界各地の戦跡で眠っておられる。将兵の方々は祖国を護る為に命を懸けて戦い、亡くなった。その日本人のご遺骨が未だ日本に帰ることが出来ないまま取り残されていることは、大変心の痛む事実である。

  遺骨収集のことを知ったのは、学生時代に茶谷武さんとおっしゃる22歳の将兵の方の遺書を読んだ事がきっかけだった。その遺書は要約するとこのように書かれていた。
 『武もとうとうお役に立つ時が参りました。生をうけて二十余年、ただの一度もお心を安ませることなく過ごして来たことをお詫び致します。
今思いますに人一倍子煩悩の父上にとって、この遺書を読まれればどんなであるか推し量ることが出来ます。
でもこの皇國危急の時、私達の涙は隠されねばなりません。
私の肉体はここで朽つるとも、私達の後を、私達の屍を乗り越えて、私達を礎として立ち上ってくるこれから生まれてくる子供達や孫達のことを思えば、またこれらの人々の中に私達の赤き血潮が受け継がれていると思えば、決して私達の死も嘆くには当たらないと思います。
どうぞ私のことを笑って誉めて下さい、武も笑って散ります。さようなら。武より』

  そして茶谷さんはフィリピンのルソン島で戦死された。
  子供の頃から、いかに日本軍や軍人が悪かったか学校で教え込まれてきた私は非常に驚いた。この遺書には今まで思い続けてきた「悪い日本の軍人」の姿はどこにもなく、ただ両親と日本人全ての子孫達への想いが込められていた。この方は自分の命よりもこれから生まれてくる日本人を護る為に死ぬと言っている。私の両親は茶谷さんのような方々に護られた結果生まれ、茶谷さんが願った通り孫である私達も生まれた。この遺書を読んで初めて、私達は将兵さん達に護って頂いた命で生きている事を知り涙が止まらなかった。

  そして同じ時期に遺骨収集活動を知り、どうしても自分の手で日本を護って下さった日本人のご遺骨を故郷にお連れしたいと強く願った。茶谷さんの孫の世代としてせめてもの感謝のお返しをしたかったからだ。

土の中では、当時の戦況のまま時が止まっている

  最初に行った遺骨収集の地、ミャンマーはインパール作戦があり日本軍の総兵力32万人のうち19万人が戦死した場所である。
  収集現場のカド村はインパール作戦の敗走ルート上に位置し、戦死者が道のように連なっていたことから名がついた「白骨街道」の一部でもあった。カド村には日本軍の野戦病院があり多くの日本軍将兵が苦しみながら亡くなったという。私達遺骨収集団は、その野戦病院の跡地に眠るご遺骨をお迎えに行った。作業現場では広大な密林の中、「この広い範囲のどこかにかつて野戦病院があった」という情報しかない。しかし戦後から現在までの間に風景も変わり、どんなに土を掘り返しても当時の手がかりさえ見つけるのは困難だった。当時ミャンマーで戦われた日本将兵の方お二人が「僕が迎えに来たんだよ。どうか土の中から返事をしてほしい」と必死で病院跡を探していらっしゃった。私達も一週間かけて村中の地面を掘ったが、広大な土地の中ではご遺骨を見つけることは出来なかった。六十余年という時の長さを痛感せざるを得ない遺骨収集であった。

  次に訪れた東部ニューギニアでは16万人の将兵が戦い、15万人以上の方々は二度と日本の土を踏むことはなかった。死因のほとんどが飢餓と病気によるもので、戦闘で亡くなった方は僅かだった。
  私達は早速日本人将兵のご遺骨を保管してくれているという村にご遺骨の受領」に行ったが、村の入り口の熱いトタンの上には沢山のご遺骨や日本人の名前の入った遺留品が無造作に並べられていて目を疑った。そして早速ご遺骨をお迎えしようとするとお金を出して購入することを要求された。トタンの上のご遺骨は陳列された商品だったのである。だが私達は日本人として遺骨をお金を払って「買う」事は決して出来ない。道徳的な意味もあるが、前例を作ると今後もそうなってしまうからである。数時間の交渉の結果、「村の方がご遺骨を見つけるために農作業を休んだ日当」という形で現金を支払い、ご遺骨をお迎えするしか方法はなかった。聞けば、以前ここでお金を出してご遺骨を買った日本人がいたのだという。だからこんなことになってしまったんだ、と私達は全員憤った。しかし考えてみた。
  もし自分の父がこの村で戦死していて目の前に父の遺骨があったら、自分ならどうするのだろう。「私はお金で買うなんて道徳的に出来ません」と、父の遺骨を置いてその村を後にする事は出来るだろうか。
  出来ないかもしれない。・・・いや、出来ないだろう。
  「お金は幾らでも構わない、どうか父の骨を連れて帰りたい」という気持ちが、きっと勝ってしまうのではなかろうか。ご遺骨を返してほしいという気持ちは皆同じだ。だがこうして年々交渉は難しくなっている。これは今後日本人が乗り越えなければならない課題である。

  三回目の遺骨収集の場所はニューギニア本島の上に位置するマヌス島であった。昭和19年、米軍と豪軍はこの島をフィリピン攻略の中継地点のため狙っていたが、日本軍はそうはさせまいとこの島を約3,700名の将兵で護ろうとした。だが敵の総攻撃により、日本軍は77名だけ残し玉砕した。そして今も多数のご遺骨が野ざらしにされたままである。
  また、この島では戦後B級・C級戦犯の裁判があり200人以上の日本人が劣悪の環境の中、重労働をさせられ5人の日本人に死刑が執行された。
現在は日本でも人気のあるリゾートの島と言われているがここには多くの日本人の屍と涙が埋もれている。
  険しい山を登りきった暗い洞窟の中でご遺骨はお一人でひっそりと眠っていた。辺りは見渡す限りのジャングル。数十年前にこの地で暑さと飢餓とマラリアに苦しめられながら亡くなった方々を偲ぶと涙が止まらなかった。「さあ、一緒に日本へ帰りましょう」と語りかけてご遺骨を抱えた時、ずっしりと重みを感じ、同時にこの腕の中のお方が命を犠牲にして戦って亡くなられた魂の重みを感じた。

  シベリアでの遺骨収集。ロシアでは終戦後に60万人以上の日本兵・民間人がシベリアに抑留された。そして6万人の方々が冬はマイナス30~40度 にもなる酷寒の中での強制労働と飢えにより亡くなった。
  収集の初日、冷たい土の奥深くからご遺骨が見つかった。冷たくベタベタした土の中で裸のまま眠っていらっしゃった御遺骨。半世紀ぶりに光を浴びたご遺骨はまだ若かったのであろう、親知らずが生えている途中だった。反対に丸いメガネが側にあった御遺骨は、入れ歯がはまったご年配の方だった。八人の方々が折り重なっていた穴もあった。仲間が死んでも、酷寒の中コンクリートの様に固まった土では一つの穴を掘るのでも精一杯だったと戦友の方  から聞いた 。どれだけ辛い思いで同胞のお墓を掘り亡骸を埋葬していったのだろうか。
  将兵のお一人は満洲でソ連軍と戦った戦友の事をこう語った。
 「戦友達はソ連の戦車を食い止める為に布団に火薬を詰めて体に巻いて、戦車に飛び込んだんだよ。布団の中で手榴弾を爆発させると自分と一緒に戦車も吹き飛ぶ。最後、銃が無くなれば自分の体を爆発物にして国を護ったんだ」と。余り知られていないが、これが特攻「布団爆弾」である。10代の少年達が火薬を詰めた布団を体に巻きつけて戦車に飛び込み自爆してまで国を護った。そして生き残った者たちは戦後、シベリア抑留で亡くなったのである。

  モンゴルではノモンハン事件の遺骨収集を行った。この地では、満州国との国境やハルハ河を巡ってのソ連・モンゴル軍との戦いがあった。事件と呼ばれているが、日本将兵7千7百名が戦死した「戦争」である。実際にモンゴルでは「ハルハ戦争」と呼ばれている。
  土を掘っていると深いところに旧ソ連軍の戦車が埋まっていて、屋根の上には頭の部分がない体だけのご遺骨がしがみついていた。同行していた学者によると命をかけてソ連軍の戦車を止めようと戦車に飛び乗ったところを、他の戦車の砲弾によって頭が飛ばされてしまったのだという。これが国を護るということなのだ。日本兵将兵は決して残虐な悪人ではないと、しがみついたご遺骨が物語っていた。一刻も早く、この方の頭の部分を見つけてあげなければ、体は日本に、頭部はノモンハンに取り残されてしまう。辺りをがむしゃらに深く掘って行ったがどんなに掘ってもどうしても頭を見つけることが出来なかった。体だけのご遺骨を荼毘に付した。体の骨だけが、音を立てて炎に崩れ落ちた。
  滞在最終日、帰途に着くためにご遺骨とともに輸送機に乗った。窓からの眼下にはノモンハンの壮大な土地が広がっている。この大地のどこかに、あの方の頭のお骨がある。ソ連軍の戦車を止めようとして砲撃に遭ったその瞬間から、永久に体と離れてしまった頭のお骨。もうあの頭と体が再び会うことは不可能だろう。蒙古平原の彼方に取り残された日本人の「頭蓋骨」を思い涙が止まらなかった。

  硫黄島では、本土を護るために最後まで戦い抜いた。「私達が一日でも長く戦えば、それだけ日本が攻撃されるのが一日でも遅れる。そうすれば一人でも多くの女性や子供が助かり、その人達からまた新しい日本人が産まれるから、だから最後まで戦おう」という栗林中将の命を皆必死で遂行した。壕やトーチカを掘り陣地を作り、アメリカ軍が5日で攻略できると言った島を1ヶ月以上も護り抜いた。しかし最後は殆どの将兵が砲撃に倒れ、壕の中で焼き殺され、2万2千人の方々が玉砕した。
  お迎えしたご遺骨は見るのも辛いくらい、バラバラになっていた。顔も爆弾で大きな穴が開いてしまったご遺骨を手に取り、ただただ、「日本を護ってくださって有難うございました」と唱えることしか出来なかった。今でも1万3千人の方々が土の中に埋まっている。

  フィリピンではルソン島に行った。ルソン島は、私が遺骨収集をするきっかけとなった遺書を書かれた茶谷武命が戦死された場所である。
ここでは、仮安置で眠っているご遺骨を受領するという使命があった。山の頂上の仮安置所に足を踏み入れて心からの衝撃を受けた。薄暗い室内は4083人の方々のご遺骨が小屋の天井の隅々まで安置されていた。その鬼気迫る光景に畏怖の念を抱いた。4083の亡骸で隙間なく埋まった安置小屋は、帰国を願う魂の底からの悲痛のうなりがこだましている様だった。
  戦争が忘れられようとされ、日本将兵が悪かったとされている日本で、このような壮絶な光景は想像出来るだろうか。日本は経済も科学も日々めまぐるしく進歩し豊かな未来に向かっている。でも世界の戦跡ではこの小屋の様に幾百、幾千の場所で時が戦時中のまま止まり、日本人の115万人の亡骸が帰国を悲願しているのである。
  また、人間の骨を二つ大切に袋に入れ持っているご遺骨も見つかった。両方とも前から見ると仏さまが座禅を組んでいる様に見える喉の部分の小さな骨だった。人間に一つしかない骨なのでお二人の骨ということになる。現地識者の見解では「戦友が亡くなり荼毘に付し、ご遺族の方に届けるために肌身離さず持っていたのだろう。」ということであった。そしていつかその将兵も戦死し、ご遺骨になってしまった。そうして三人の兵士は六十数年後、二つの小さな喉の骨とそれを持つ一体のご遺骨という形で迎えられた。あの壮絶な戦火の中、戦友の亡骸を焼いて持ち歩き死ぬ時まで肌身離さなかった二つの喉の骨。きっとこの3人は強い絆で結ばれた間柄だったのだろう。
  あの戦争は、事実を誰にも伝えなれないまま部隊の兵士が全滅した事が沢山ある。102冊もある厚い「戦史叢書」だけでは到底書ききれない、戦死者一人ひとりの想像を絶する苦しみがあったと思う。そのことを知れば知るほど、私は戦死した方々の護国の思いや願いを未来に繋げて行かなければいけないと思う。

  こうして9年間、様々な地域でご遺骨をお迎えしてきた。どの地域のご遺骨も、「絶対に日本を護る」という硬い信念がありありと伝わってくるような状態のまま亡くなっていた。まるで60数年間、土の中で歴史が固まっているようであった。ご遺骨の死に際の状態が、正に日本軍は侵略ではなく祖国を護るための戦いに行ったとの確固たる証拠のようにも思えた。私は「日本軍は侵略をした悪い人達。謝罪をしなければ」と言っている全ての人達にこの状態を見てもらいたい。そして問いたい。「この戦車にしがみついている首のないご遺骨を見ても、日本軍が悪かったと思いますか」と。「布団を体に巻いて戦車の下で爆死した十代の少年のご遺骨を見て、それでも謝罪談話を出すべきだと思いますか」と。
  遺骨収集をして、ご遺骨があんなに帰りたかった日本に帰って来た時、日本兵は悪いことをしたと教えられ、謝罪ばかりで自虐史観にまみれている。もちろんご遺骨には日本に帰ってきてほしいが、こんな状況を知られたらどんなに悲しむかとも思う。
  これからの私達は、ご遺骨が日本に帰ってこられた時に日本に帰ってきて良かったと思って頂けるような日本を再建することが、大切な役割なのではないだろうか。

護ってくださったことへの感謝の気持ちを伝えたい

  また、もう一つ同じ位の大切なことがある。それは、現在ご存命の将兵さんにも感謝の気持ちを表さなければならないということだ。
  以前、ある元日本軍将兵のお二人に対し酷い事を言った日本人がいた。「いかに日本軍が悪く、アジアの人たちが日本軍を憎んでいるか」「どんなに日本兵が残虐に侵略したか」と。お二人が「戦死した戦友に聞かせてやるんや」と軍歌を歌うと「軍国主義を思わせるような歌はやめてください」ときつく言われていた。お二人は反論もせず、悲しそうに下を向いていました。皆がいなくなってお二人と私の3人だけになった時、お二人がつぶやいた。
「わしらは、長生きをしてはいけなかったのかもしれんなあ」
「わしらが戦争でしてきた事が、こんなにも憎まれているんやなあ」
と。泣きそうな横顔だった。そして、帰国後しばらくしてお一人の方が亡くなった。
  日本を護るために戦争で戦った将兵さん達が、「わしらは長生きをしてはいけなかった」「戦争で悪いことをして憎まれている」、そう思いながら過ごされている、その気持ちのまま亡くなっている・・これは本当に心の痛む事実だ。だがこのような事は、日本中の至る所で起きている。戦後の日本は将兵を悪者扱いしてきた。本当に悪者だったからではない。GHQの占領政策上、そうすることが一番低コストで敗戦国を精神的にも占領できたからである。そのため戦後、日本将兵を悪く思わせるための様々な方法が実施され、その思想は今でも根付いている。日本軍将兵の方々は、『これから生まれてくる子供達、孫達のために』と命を挺して戦った。だがその護りたかった子供達、孫達に『悪者』だと思われてどんなに悲しい不本意な戦後60余年を過ごされたのだろうか。どんな気持ちを抱え、亡くなって行ったのだろうか。私はそのことをある将兵さんに尋ねた。その方はこうおっしゃった。「私達は国を護りたい一心だった。悪者じゃない。どうして私達が悪者なんだ!でも世の中が悪者と決めたのだから、もう一生悪者と思われたままなんだよ」と。
  その事実を変えなければならない。今こそ、私達から将兵さん達に、『あの戦争で日本を護ってくださってありがとうございます』と伝える最後の機会ではないだろうか。
  あの時一番若かった将兵さんでさえ、今80代のお歳だ。殆どの方は、もう既にお亡くなりになっているか、90歳を越えていらっしゃる。時間がない。
本当に今が、最後の機会なのだ。
  私は、「わしらは、長生きをしてはいけなかったのかもしれんなあ」とおっしゃった将兵さんのお一人の横顔が忘れられない。あのような思いをされている方がこれから一人でもいなくなるように、これから日本中の元将兵の方々に日本人からの多くの感謝の気持ちを届けたいと思っている。

大東亜戦争を戦った全ての日本軍将兵の方々に、今こそ感謝を。